癸丑きちゅう)” の例文
「安政三十二家絶句」に梅痴の生年を寛政五年癸丑きちゅうとなしているから天保十一年には四十八歳。枕山より長ずること二十六年である。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
癸丑きちゅう六月に夷舶いはくの来りしとき、余、江戸に遊寓ゆうぐうす。警を聞きせて浦賀に至り、親しく陸梁りくりょうの状を察し、憤激にえず。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
彼は嘉永六年癸丑きちゅう、米国軍艦が、江戸近海に繋泊けいはくするに際しては、もとより主戦論者にてありき。彼れ曰く、「理宜して天下の大義を伸べて、逆夷の罪を征討すべし」
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
嘉永六年癸丑きちゅう三月三日に横山湖山、鷲津毅堂の二人が羽倉簡堂はくらかんどうに招かれて、その邸に催された蘭亭修禊しゅうけいの詩筵に赴いた。簡堂の邸は下谷御徒町藤堂家の裏門前にあった。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
嘉永六年癸丑きちゅう 十年四方に遊学の公許を受く。六月朔日さくじつ、江戸に着す。六月三日、米国水師提督彼理ペリー浦賀に来る。七月、家定将軍となる〔温恭公〕。七月、露艦長崎に来る。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)