法筵むしろ)” の例文
その日の集まりは、たそがれに終って、昼間の法筵むしろであったので、多くは野に出て働かない町方の女房だの、老人だの、病人や子どもたちであった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もう幾度いくたびとなく法筵むしろのある時には、いつでも、壁の隅のほうに小さくなって、熱心に自分の話に聞き入っているこの女のあることを知っていた。——ふと姿の見えない時は、親鸞も心のすみで
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)