椿庭ちんてい)” の例文
師山田椿庭ちんていが本郷弓町から尋ねて来て、「矢島さんはこちらですか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて伺いました」
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
わたくしは此にしばらく当時の所謂「蘭門の五哲」を挙げる。即ち渋江抽斎、森枳園、岡西玄亭、清川玄道、山田椿庭ちんていである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
これより先良三は、優善が山田椿庭ちんていの塾にったのとほとんど同時に、伊沢柏軒の塾にって、柏軒にその才の雋鋭しゅんえいなるを認められ、せつを折って書を読んだ。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
五十四歳の隆升軒信階りゆうしようけんのぶしなが膝下で、二十一歳の蘭軒は他年の考証家の気風を養はれてゐたであらう。蘭軒が歿した後に、山田椿庭ちんていは其遺稿に題するに七古一篇を以てした。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
多紀安琢あんたくおなじく元佶げんきつ、伊沢柏軒、山田椿庭ちんていらが病牀びょうしょうに侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広ぎょうこう、通称は昌栄しょうえいである。抽斎の父允成ただしげの門人で、允成の歿後抽斎に従学した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
椿庭ちんていは山田昌栄業広しやうえいげふくわうである。弟柏軒も亦中橋から来り診した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)