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持明院
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じみょういん
ふりがな文庫
“
持明院
(
じみょういん
)” の例文
皇子のお帰りとあって、院の御所からはお迎えの車がつかわされた。皇子の母上始め、乳母、
持明院
(
じみょういん
)
の
宰相
(
さいしょう
)
の喜びは一通りではなかった。
現代語訳 平家物語:11 第十一巻
(新字新仮名)
/
作者不詳
(著)
後深草は、
持明院
(
じみょういん
)
を御所としたので、持明院統とよばれ、亀山は、
大覚寺
(
だいかくじ
)
にお住みだったので、大覚寺統と世間がいった。
私本太平記:03 みなかみ帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
後醍醐天皇は、後宇多と伏見の両上皇が、
大覚寺
(
だいかくじ
)
と
持明院
(
じみょういん
)
の両統から交互に天皇を立てるという約束をした。
天皇:誰が日本民族の主人であるか
(新字新仮名)
/
蜷川新
(著)
そして両家の対立は、実は皇室における
大覚寺
(
だいかくじ
)
・
持明院
(
じみょういん
)
両統の対立を後にしておったのである。
中世の文学伝統
(新字新仮名)
/
風巻景次郎
(著)
かく道元の説く慈悲の前には、「悪は必ずしも
呵嘖
(
かしゃく
)
すべきものでない」。このことを証するものとして道元の次の言葉をあげることができる。あるとき故
持明院
(
じみょういん
)
の中納言入道が秘蔵の
太刀
(
たち
)
を盗まれた。
日本精神史研究
(新字新仮名)
/
和辻哲郎
(著)
“持明院”の解説
持明院(じみょういん)は、平安時代末期から江戸時代にかけて平安京北郊に存在した邸宅およびその邸内にあった寺院。現在の京都市上京区安楽小路町の光照院の付近にあった。鎌倉時代以降には仙洞御所や里内裏となり、持明院統の由来となる。邸宅を持明院殿、また寺院を安楽光院(あんらくこういん)・安楽行院(あんらくぎょういん)とも称す。
(出典:Wikipedia)
持
常用漢字
小3
部首:⼿
9画
明
常用漢字
小2
部首:⽇
8画
院
常用漢字
小3
部首:⾩
10画
“持明院”で始まる語句
持明院統
持明院派