光徳こうとく)” の例文
五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子光徳こうとくの代になっていた。光寿は迷庵の歿後わずかに五年にして、天保三年に光徳を家督させた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)