その技術の精巧なのに内外人を驚かし、明治になって美術学校教授となり、明治十四年の第二回博覧会へ出品した髑髏の彫刻には、明治大帝の御前で、総裁能久親王から名誉賞を授与せられたのです。
“能久親王(北白川宮能久親王)”の解説
北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日〉 - 1895年〈明治28年〉10月28日)は、日本の皇族。北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。
伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。
(出典:Wikipedia)
伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。
(出典:Wikipedia)
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