紀伊国の住人で、熊野別当湛増という者があった。代々、平家に縁故浅からぬ関係にあり、このたびの戦にも、平家方が心頼みにしている水軍の一人であった。
このころ、熊野別当湛増は、平家の重恩を受けていたが、どこからこの令旨のことをもれ聞いたのか
“湛増”の解説
湛増(たんぞう、大治5年(1130年) - 建久9年5月8日(1198年6月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧(法躰)で、21代熊野別当である。18代別当湛快の次子。源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる。「たつたはらの女房」を湛増の実母とし、熊野別当家の中に、ある種の愛憎劇を想定する説があるが、これは実証をともなわない説である。湛増の子は息子が7人、娘が5人であり、嫡男の湛顕は1155年頃に生まれ1202年頃に死去したと考えられる。伝承では武蔵坊弁慶の父としても描かれている。
(出典:Wikipedia)
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