正精まさきよ)” の例文
「同三年阿部主計頭殿、後備中守嫡子運之助殿を診ひ、主計頭に謁す。此善直諸侯に見の始なり。」阿部主計頭かぞへのかみは即ち棕軒侯正精まさきよである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
恭忠は備後国福山の城主阿部あべ伊勢守正倫まさともおなじく備中守正精まさきよの二代に仕えた。そのだん枳園を挙げたのは、北八町堀きたはっちょうぼり竹島町たけしまちょうに住んでいた時である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
わたくしは蘭軒が此年文政六年に阿部正精まさきよに代つて弘安本孝経に跋した事を言つた。そして所謂弘安本の古文孝経孔伝であることに及んだ。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
渡辺修次郎さんの阿部正弘事蹟には、「正精まさきよの時、村上清次郎、菅太仲、鈴木圭輔、北条譲四郎(中略)皆藩の儒員たり」
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷ほんごう真砂町まさごちょうに住んでいた。阿部家は既に備中守びっちゅうのかみ正精まさきよの世になっていた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
親蔵しんぞうが福山侯阿部あべ備中守正精まさきよに仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)