丸橋忠弥まるばしちゅうや)” の例文
そこで、由井正雪ゆいしょうせつ陰謀事件が慶安四年十一月二十九日丸橋忠弥まるばしちゅうやらの処刑で結了すると、幕府は直ちに浪人の処分の事を議した。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
「何だと?——今の世の中にそんな馬鹿なことがあるものか。もっとも、由比ゆい正雪しょうせつなら牛込榎町うしごめえのきちょうよ、丸橋忠弥まるばしちゅうやは本郷弓町だ、縄張違いだよ、八」
丸橋忠弥まるばしちゅうや召捕りのために、時の町奉行石谷左近将監いしがやさこんしょうげんが与力同心三百人を率いて彼の邸へ向かったのは、慶安四年七月二十二日の丑刻うしのこくを過ぎた頃であった。
正雪の遺書 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それも彼の学説が大藩に迎えられたためでなくたまたま当年の浪人に——丸橋忠弥まるばしちゅうやがそう自白したと伝えられる——信奉されたという理由から奏功したといわれている。
尊攘戦略史 (新字新仮名) / 服部之総(著)
「あの、田代屋又左衛門というのは、確か、慶安けいあん四年(一六五一)の騒ぎに、丸橋忠弥まるばしちゅうや一味の謀叛むほんを訴人して、現米三百俵、銀五十枚の御褒美をおかみから頂いた親爺おやじでございましたな」