“かんどく”のいろいろな漢字の書き方と例文
語句割合
簡牘66.7%
柬牘33.3%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
簡牘かんどくは伊沢信平さんがわたくしに借してくれた二通の中の一つで、他の一つは此より後十四年、文政八年十二月十一日に裁せられたものである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠ってあきらかに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、なかばは材料をこの簡牘かんどくに取ったものである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
此蘭軒の妾も亦同じ家から出たのではなからうか。其名のさよをば、わたくしは茶山の簡牘かんどく中より始て見出した。要するに側室は佐藤氏さよと云つたのである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
わたくしは此会合を説くにさきだつて一事の記すべきものがある。饗庭篁村あへばくわうそんさんは此稿の片端より公にせられるのを見て、わたくしに茶山の簡牘かんどく二十一通を貸してくれた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
わたくしは又関藤国助さんの「関五郎は藤陰の事に候」と書した柬牘かんどく目覩もくとした。国助さんは藤陰の女婿にして其継嗣なる成緒せいちよの子である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
しかしわたくしは後に茶山の柬牘かんどくを読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことをさとつた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
竹田は氏を書して名を書せない。しかし茶山集に「玉蘊女画史」と称してゐるのを見て、柬牘かんどくの尾道女画史におもひくらべ、玉蘊の平田豊なるべきを推測したのである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)