きざ)” の例文
少しは邪推の悋気りんききざすも我を忘れられしより子を忘れられし所には起る事、正しき女にも切なきじょうなるに、天道怪しくもこれを恵まず。
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ここまで考えると、純一の心のうちには、例の女性に対する敵意がきざして来た。そしてあいつは己を不言の間に飜弄ほんろうしていると感じた。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
のみならず、貞之助にしても、もうここいらが望み得る最上の縁であるかも知れない、と云う心持がきざしていたことも事実であった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
勝代は負けぬ気でそう言って口をつぐんだが、ふと不安の思いがきざして顔が曇ってきた。良吉も話を外して、小さい弟をあやしなどした。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
六段と上るにつれて「何うせ此処まで上った位なら上って見届けて来よう。」という冒険的の考えがきざして遂に私は上って行った。
暗い空 (新字新仮名) / 小川未明(著)
二人の運命を想いやる時には、いつでも羞かしい我の影がつきまとうて、他人ひと幸福さいわいのろうようなあさましい根性もきざすのであった。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
ただ今の時勢人情にては、遠国へ渡海して数多あまたの国々を検査し、うち善悪をえらび開業に掛ることは、日本国の人情においていまだきざさず。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
あのやうな面皰だらけの野猿坊やゑんばうみたいなもんでも、近頃情人をとこ出來でけてあつたさうで、そやつに唆かされて惡心がきざしたものと見えます。
大阪の宿 (旧字旧仮名) / 水上滝太郎(著)
これは今から考えると、全く向うの人格に対して、貰っては恥ずべき事だ、こちらの人格が下がるという念からきざしたものらしい。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
単調で無意味なただ時間を消すだけの義務的な往復しかくりかえしてはいないことに、はじめてある不安と疑問とがきざしてきたのだった。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
しかるに彼ら閣臣のやから事前じぜんにその企をきざすによしなからしむるほどの遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機智親切もなく
謀叛論(草稿) (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
二人は手を引き合って、ゆっくり歩きながら、折々顔を見て笑い交すのである。口に出ることばは昔恋の初めてきざしたころの詞と同じであった。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
悲しみつつ、苦しみつつ、生を賛美する心が湧くのではあるまいか。私の胸の奥にはこの頃一種のオプチミズムがきざし初めたようである。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
酒を多く飲めば酒乱のきざしがあり、今も飲んだ酒が醒めたというわけではないのですから、主膳はかっと怒り、一時に逆上のぼせあがりました。
大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
よろしく衆議を尽くし、天下の公論によるべしとは、後年を待つまでもなく、早くすでに当時にきざして来た有力な意見であった。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
芭蕉の「曠野あらのの夢、宗祇の月をながめて」といった、あの臨終の言葉にこもるあくがれごこち、どちらも芸術の執心にきざさぬものはない。
なぜといえば、家康いえやすの心のうちには、いよいよ邪計じゃけいきざしがみえる。——武田たけだ残党ざんとうにくむことが、いぜんよりもはなはだしい。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
フレンチが一昨日も昨日も感じていて、友達にも話し、妻にも話した、死刑の立会をするという、自慢の得意の情がまたきざす。
土土用つちどようが過ぎて、肥料こえつけの馬の手綱を執る様になると、もう自づと男羞しい少女心がきざして来て、盆の踊に夜を明すのが何よりも楽しい。
天鵞絨 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
文太郎は盛春館の女將の言葉で元の如く景氣がついたやうであつたが、それでも何處となく不安な考へが時々頭の底にきざした。
かかる折から月満ちけん、にわかに産の気きざしつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
その荘厳なる瀕死ひんしの勇者のまわりにはある聖なる恐怖が勝利者らのうちにきざして、イギリスの砲兵は息をつきながら沈黙した。
が、それと同時に、にらむような嫉妬しっとが、ホンのわずかではあるが、心の裡にきざして来るのを、うすることも出来なかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
冴えたも当然、帰って来たほんのすぐからもう退屈の虫がきざして、旅に出ようかとさえ言ったその矢先に、何やら容易ならん声がしたのです。
都心の街路には、くすの木の並木があざやかで、朝のかあつと照りつける陽射しのなかに、金色のを噴いて若芽をきざしてゐた。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
彼の前途にはすでに十字架がきざしたが、彼はなお残る地上僅少の生涯をば専心神の国のために労されねばならないのです。
二葉亭は明石あかし中佐や花田中佐の日露戦役当時の在外運動をしきりに面白がっていたから、あるいはソンナ計画が心の底にきざしていたかも解らぬが
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
又更に封建的残滓を基底として急速にきざされた資本主義乃至それの〔高度化〕された〔段階を〕表現する各種の立法・行政・司法とを通路として
私にもその瞬間それに似よつたものがきざしたのは事実である。父や継母をのろひながらもの叔父を見ると「父の敵」と云ふ感じを直ぐ私は感じた。
ある職工の手記 (新字旧仮名) / 宮地嘉六(著)
およそ裁判には、寸毫すんごうの私をも挟んではならぬ。西方を拝するのは、愛宕あたごの神を驚かし奉って、私心きざさば立所たちどころに神罰を受けんことを誓うのである。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
村の労働者がヒルマ・コビルマを食う習慣は相応に古いと思うが、その頃からすでに今日の変革はきざしていたのである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
それは当然死よりもつらくまた出来にくかったであろうが、正しい取るべき道は、最初倉持との恋愛がきざした時に、いさぎよ良人おっとに打明けるべきであった。
芳川鎌子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
きざした悪心の割前の軍用金、分っているよ、分っている……いるだけに、五つ紋の雪びたしは一層あわれだ、しかも借りものだと言ったっけかな。」
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しかし、一度きざした考えは容易に消えなかった。父を大事に思えば思うほど、いよいよそのことが気になって来た。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
妾は一人になると、ソファに埋れて、昨今佐野と妾との内部にきざした不和について考えると憂鬱になるのでした。
バルザックの寝巻姿 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
けれども、一たんむす子へきざした尊敬の念は、あとからき起るさまざまの感傷をも混えて、昇り詰めるところまで昇り詰めなければ承知出来なかった。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
けふはステパンがいつもよりも深く溺れたやうな心持になつてゐて、その癖少しも官能的発動はきざしてゐない。
かくの如く婦人は到底とうてい無器用なる男子の出来ぬ多くの労力を自らするのであって、其処そこに自然に男女間の分業が行われる。が、この分業から一種のへいきざす。
婦人問題解決の急務 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
亡者なきものにせずんば此事行ひ難しと茲に惡心あくしんきざせしこそ嘉川家滅亡めつばうすべきもとゐと後に知られけるされば近頃藤五郎兄弟の事は何に依ず惡樣あしさまのゝしをりふれては三度の食を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
同時に夢の美男の顔が、身も世もなく慕わしいものとして、ふっとあたまの隅にきざしたりもするのだった。
あの顔 (新字新仮名) / 林不忘(著)
然るに不幸にして男性の素振に己れを嫌忌するのさまあるを見ば、嫉妬もきざすなり、廻り気も起るなり、恨みにがみも生ずるなり、男性のみづから繰戻すにあらざれば
厭世詩家と女性 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
面從腹誹ふくひ、抑鬱不平、自暴自棄などの惡癖陋習ろうしふの、我心の底にきざしゝより外、又何の效果も無かりしなり。
長篇流行の風がきざした。日本の文学も私小説の時代を経て社会小説の黎明に入ったともいわれたのであったが、そこには極めて微妙な時代的好尚の影がさしこんだ。
昭和の十四年間 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
も一つ心の奥からの悪戯いたずらきざしかけたのは、ともかく私がこの庭まで忍び込んだという証拠として、また、その事実を彼女に何かしら知らしめたいということから
性に眼覚める頃 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
三年まえに君と同道してこの古い国をさまよい歩いたときから僕のうちにきざしだした幾つかの考えのうちでも、まあどうやらこうやら恰好のつきだしているものを
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
Y町で二人の戀愛が默つた悲しみの間にきざし、やがて拔き差しのならなくなつた時、千登世は、圭一郎が正式に妻と別れる日迄幾年でも待ち續けると言つたのだが
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
そして、十月に上海シャンハイが陥ち、日本軍が首都南京ナンキンに迫るにいたって、ようやく世界動乱のきざしが見えて来た。
原子爆弾雑話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
そしてそれが単に自分一人の問題ぢやなくて、すべての自分の信頼の的である父が、同じ悩みをわかつてゐるのだと思ふと、急に安心したやうな横着な気がきざして来た。
父の死 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
ふと身体じゅうを内部から軽くすような熱感がきざしてきた。この熱感はいつでも清逸に自分の肉体が病菌によってむしばまれていきつつあるということを思い知らせた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
その以後の私に更にまたいろいろの自由を要望する意識が徐々としてきざして来た。低落した女性の位地を男子と対等の位地にまで恢復かいふくすることはその随一の欲望であった。
鏡心灯語 抄 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)