“憑(の)” の例文
と、淵辺の血走ッた眼は咒文(じゅもん)のように呟いた。何かが憑(の)り移ったもののごとく、両の膝がしらで、ジリジリ前へすすみ出ながら。
衒学(げんがく)的な中性女そのまゝな口振りが憑(の)り移って、うぶ毛の口髭さえ面影に浮ぶのを醜いものにわたくしは感じ取りましたが
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
半年以前に、アランの言ったと同じようなことを書いたが、私にもいくらかアランの気持が憑(の)り移ってきたのかも知れぬ。
令嬢エミーラの日記 (新字新仮名) / 橘外男(著)
一天の景(かげ)は、寒く、こころを憑(の)り秉(と)つて、歎きの科(しぐさ)を強ひる。——わたしはその群る虫に、その虫の歌に、汎として泛(う)き流れるサモス派の船である。…
雪 (新字旧仮名) / 高祖保(著)
よしや我身の妄執(もうしゅう)の憑(の)り移りたる者にもせよ、今は恩愛切(きっ)て捨(すて)、迷わぬ初(はじめ)に立帰(たちかえ)る珠運に妨(さまたげ)なす妖怪(ようかい)、いでいで仏師が腕の冴(さえ)、恋も未練も段々(きだきだ)に切捨(きりすて)くれんと突立(つったち)て
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
筆の先で思想上の問題を始終(しじゅう)取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑(の)り移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
あんたには、急な病で死ィとげた、肉親の女のひとがついている。そのひとは、現世で仕残したことがあるのンで、それがあきらめきれんで、あんたの身体に憑(の)りうつって、現世のいとなみを
姦(かしまし) (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
子供の小腕だし、刀も小さいが、侮(あなど)り難(がた)いのは、その血相である。なにか、憑(の)り移っているように蒐(かか)って来る向う見ずな切先には、兵庫も、一歩退(ひ)かなければならなかった。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もし猜疑(さいぎ)の眸(ひとみ)が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻(さっき)の波瀾から来た影響は彼にもう憑(の)り移っていた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「おのれは、藩祖さまが憑(の)りうつったような高慢な口をきく。さっきから、ちくいち聞いていたが、おのれの申すことは、すべて理窟だ。つまりは、このわしに切腹せい、詰腹を切れというのかい」
無惨やな (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
神路山へ鷹を放って小鳥の肉を炙(あぶ)ったりして、大いに武威を謳(うた)っているうちに気が変になったという男の話があるが——今夜の裸男に、その悪霊(あくりょう)が憑(の)り移ったのではあるまいか。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここより後へは退(しりぞ)く大地を持たない唇をむすんで、輦(くるま)のまえの大衆に憑(の)りうつッている大魔小魔の振舞いをながめているだけなのである。そして、その結ばれたままの唇から、微かに
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
……終ると、香煙の渦の中にある上人(しょうにん)の顔は、そのままいつのまにやら定(じょう)に入ったすがただった。膝に印(いん)を結び、趺坐瞑目(ふざめいもく)することしばらく、やがてのこと、何かが憑(の)り移ったようにこういった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)