後嵯峨ごさが)” の例文
後深草の皇后、西園寺公子さいおんじきんこは、父帝後嵯峨ごさがの未亡人——皇太后の姞子よしこ——の妹であったから、叔母おいの仲であり、叔母が妻でもあったのだ。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
雲巌寺は開基五百余年の古寺ふるでらで、境内に後嵯峨ごさが天皇の皇子おうじ仏国ふつこく国師こくしの墳墓がある。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
「皇統の選びなどは、わが家のことに過ぎん。——後嵯峨ごさがこのかた、九十年もの間、幕府の鼻息びそくを恐れて、いちいちそれに問うて来たなど、愚の限りぞ」
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこには、後嵯峨ごさが法皇のご祈願所、称名寺があった。堂宇どうう十四坊。まず申し分ない宿営の地といっていい。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
やがてその皇太子に、父帝の後嵯峨ごさがは、またも弟の亀山天皇の皇子を立てられたからである。——弟の亀山はお気づよく、兄の後深草はおとなしい。——しかしさすがこれにはお腹を立てた。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)