天部あまべ)” の例文
四条河原の細工とは今の天部あまべ部落が、なお四条河原の今の大雲院の地におった時代の事で、当時彼らは神事の建築にもたずさわっていたのです。
天和・貞享年間の「雍州府志」には、京都天部あまべ部落の状態を記して、その家富める者多しと書いてあるが、これはひとり天部のみの事ではなかった。
京都の天部あまべなどは、扶持離れのした雑戸の落伍者の末かと存じます。そこで昔の社会状態を考えるには、まず以て浮浪民の存在を考えなければなりませぬ。
しかもなお天部あまべ小法師こぼしと称するものは、禁裏御所のお庭掃除のお役をつとめておりました。この小法師は後には蓮台野部落や、大和の部落から出ております。
同地の天部あまべの篤志家故竹中庄右衛門翁の家庭をうて、その所蔵の古文書を見せてもらい、そのついでに翁の依頼に応じて、同町内の夜学校舎で、町内の有志のために
融和促進 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
これらの島や鴨河原へ、餌取えとり余戸あまべの本職を失ったものが流れ込んで、所謂河原者をなし、その或る者はエタと呼ばれ、或る者は天部あまべと呼ばるるに至ったものではあるまいか。
エタ源流考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
そして今の天部あまべ部落は、もとこの鴨河原の住民で、後に四条河原の細工とも呼ばれ、やはりここで放牧葬送の地の世話をしておったのがその起原であったかと察せられるのである。
エタ源流考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
享保三年に天部あまべ村の手下てか伊左衛門、六条村の手下てか権兵衛・大西屋庄左衛門の三人が、皮田村改めに摂津国へ下った時の調査報告に、島下郡では西富田・岸部・吹田の穢多村と共に
エタ源流考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
御所のお庭のお掃除は、もと京の天部あまべと呼ばれた部落から出て勤めたもので、それを古くから小法師と呼ぶ例であったが、これが中頃失策があって、一時は大和や丹波から出ておった。
賤民概説 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
旧エタの頭村と言われた天部あまべ部落を通過する機会が多く、自然にその現状に通暁するに及んで、もとエタ非人と並称せられ、法制上からはむしろ下位に見られた旧非人の方が立派になって
編輯雑感 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)