“佐渡奉行”の読み方と例文
読み方 | 割合 |
---|---|
さどぶぎやう | 100.0% |
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
「それから、かういふこともありました。つい二月ばかり前、佐渡奉行さまが、江戸から来て出雲崎に泊られました。わたしは名主だから宿や船のことなど、いろいろお世話しなければなりませんでした。」
“佐渡奉行”の解説
佐渡奉行(さどぶぎょう)は、江戸幕府の遠国奉行の一つ。
佐渡奉行は、関ヶ原の戦いを経て佐渡が上杉氏から幕府の支配下となった慶長6年(1601年)に設置された。当初は佐渡代官と呼ばれており、正式に佐渡奉行と名乗ったのは、元和4年(1618年)着任の鎮目惟明、竹村嘉理の代からと考えられている。一時期は、荻原重秀のように勘定奉行を兼任した者もいた。正徳2年(1712年)以降は、定員が2名となり、1名が現地佐渡に在勤し、もう1名は江戸に詰めた。奉行は、佐渡在勤時は単身赴任であった。
老中支配の布衣役で、役高は1000石。ほかに役料1500俵、100人扶持が支給された。江戸城中での殿中席は芙蓉の間。慶応3年(1867年)には禄高にかかわらず3000両の役金が支給された。
(出典:Wikipedia)
佐渡奉行は、関ヶ原の戦いを経て佐渡が上杉氏から幕府の支配下となった慶長6年(1601年)に設置された。当初は佐渡代官と呼ばれており、正式に佐渡奉行と名乗ったのは、元和4年(1618年)着任の鎮目惟明、竹村嘉理の代からと考えられている。一時期は、荻原重秀のように勘定奉行を兼任した者もいた。正徳2年(1712年)以降は、定員が2名となり、1名が現地佐渡に在勤し、もう1名は江戸に詰めた。奉行は、佐渡在勤時は単身赴任であった。
老中支配の布衣役で、役高は1000石。ほかに役料1500俵、100人扶持が支給された。江戸城中での殿中席は芙蓉の間。慶応3年(1867年)には禄高にかかわらず3000両の役金が支給された。
(出典:Wikipedia)