おび)” の例文
默つて振り返ると、勝藏の娘のお秋が、此上もなくおびえた樣子で、自分の袂を噛んだり揉んだり、平次の後ろから追ひすがるのです。
めったに、物事を疑ってみることをしない彼女だけに、事の意外に打たれると、驚き方も、人よりはひどく、そしておびえやすかった。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
なぜかしどろもどろとなって、うろたえおびえながら、逃げるように向うへ走り去りました。——まことに奇怪と言うのほかはない。
そうして、雨の中をこんく探して歩いたが、怪物の正体は遂に判らなかった。私は夜もすがらこの奇怪なる音楽のためにおびやかされた。
二階から (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
商売は其の日の運不運だから、それはまあよいとして、此頃このごろ頻りに手詰まって来た金の運転には暗い気持の中に嫌なおびえさえ感じられた。
とと屋禅譚 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
仮住かりずまいの生活も、いつか三年を数えていた。うわさおびえ、風聞に胸を躍らせ、一日たりとも、心の安まる暇のない生活であった。
荒浪の天うつ波の逆まきのとどろきが上、あああはれ、また、向き向きに、稲妻のさをおびえに連れ連れ乱る、啼き連れ乱る。
観相の秋 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
聞いている子供たちは下手な話手の言葉から、もはや遺伝になっているその凄惨な状景を描き、おびえることに満足していた。
白い壁 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
そうして、それのすべてが彼を無言のうちにあざけり、おびやかしているかのような圧迫感に打たれつつ、又もガックリとうなだれて歩き出した。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
竹亭寒笑が滝川内膳におびやかされて大助の身辺を密偵したこと、寅寿が梅八をさそい出した始終、寒笑が三当旗を盗み出そうとしたことから
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
だが、人間豹の怪しげな言葉を聞き、さも自信ありげなせせら笑いを耳にすると、さすがにおびえないではいられなかった。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
私の感覚はおびえて、石のやうに竦んでしまふばかりだつた。持つて来た書物が消毒室から帰つて来るまでの間、私は全く死人のやうになつてゐた。
柊の垣のうちから (新字旧仮名) / 北条民雄(著)
それに彼女は、自分がそう云う躾方しつけかたをされたことがないので、伯母の折檻が始まると、おびえたような眼つきをして伯母の顔を盗みるのであった。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
東京市民は空襲警報にしきりとおびえ、太平洋では彼我ひがの海戦部隊が微妙なる戦機を狙っているという場面であった。戦争は果して起るのであろうか。
人造人間事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そして気味わるく物凄ものすごい顔をした、雲助のような男たちにおびやかされたり、黒塚くろづか一軒家いっけんやのような家にとまって、白髪しらがおそろしい老婆ろうばにらまれたりした。
「黒い男をですかえ。」と、ヒステリー風の女は眉毛のあたりに青い波を打たせておびえるような声でいった。
悪魔 (新字新仮名) / 小川未明(著)
自分は感冒に対して、おびえ切ってしまったと云ってもよかった。自分は出来るだけ予防したいと思った。最善の努力を払って、かゝらないように、しようと思った。
マスク (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そして父親は父親でまだ見たこともない悲しげな眼色をしていたからである。娘はそういう父と母との間に、自分の心がひとりでおびやかされ縮むような気がした。
みずうみ (新字新仮名) / 室生犀星(著)
最初に視線が合ったとき、背筋を走りぬけた戦慄せんりつは、あれが私のおびえの最初の徴候ちょうこうではなかったか。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
その手に彼は専制君主の力を示すしゃくというべきむちをふりかざしていた。正義の鞭は王座の背後の三本のくぎにかけてあり、悪事をはたらくものを絶えずおびやかしていた。
しかも、そんなに戦きおびえながら、僕はどのように熱烈に人間を恋し理解したく思っていたことか
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
あたしがおびえきっていると、こわくはない、加頭の兄さんで、おとなしい人だと家の者がいった。
この真面目まじめくさった「そうか」が重なるたびに、津田は彼からおびやかされるような気がした。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
菊丸は荒々しい環境におびえて、ぐったりと弱りこんでしまったが、七日目ぐらいから、果敢はかないようすになり、手足をひきつらせたり、うわごとを言ったりするようになった。
呂宋の壺 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
その音におびえたのであらうか、今までは音無しく睡入ねいつて居たらしい彼の二疋の犬は、その時床の下からほの白く出て来るや否や、又いつものあの夕方の遠吠えを初めた……。
わたしにすつかりおびえてゐるのだ。わたしは階段の登り口から台所をチラと見た、婆やも後ろを向いたきり黙つて用をしてゐる。わたしは物足りない、孤独な心持で二階に上つた。
愚かな父 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
と、おびえたような声で云ったのは佐五衛門であった。でも、すぐに幾度も頷き
猿ヶ京片耳伝説 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そのいきおいにすっかりおびえて、子供達は干潟ひがた寄居虫やどかりのようにあわてて逃出した。
果樹 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
しかし見えない鞭の影は絶えず彼女をおびやかしてゐた。
一塊の土 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
これは彼を真底からおびやかすものではないだろうか。
最初の苦悩 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
私はおびえながらうなずいたのだった。
あまり者 (新字新仮名) / 徳永直(著)
さう言へばガラツ八の後ろに、大町人の若旦那と言つた若い男が、ひどくおびえた樣子で、ヒヨイヒヨイとお辭儀をして居るのです。
こちらへさやさやとつつましやかにきぬずれの音を立てながら、大役におびえおののいているのに違いない菊路が導かれて来た気配けはいでした。
おびえの中に必死を持った形相は、何とも物凄い。彼は馬をそこへ捨てたまま、木の根、岩かどにしがみついて、道なき所を越えはじめた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
婚約中の男女の初旅にしては主人はあまりに甘くない舞台を選んだものだと私は少しおびえながら主人のあとについて行った。
東海道五十三次 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
ハッキリした予感と、その予感におびやかされつつある彼の全生涯とを、非常な急速度で頭の中に廻転させたのであった。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
磯長しながの小ゆるぎの荒浪千鳥。荒浪のそらうつ波の逆まきのとどろきが上、あああはれ、また向き向きに、稲妻のさをおびえに連れ連れ乱る。啼き連れ乱る。
風呂槽からザアザアと水をかぶっていると、隣の台所で、清のおびえたような声が、ふと、旗男の耳にひびいた。
空襲警報 (新字新仮名) / 海野十三(著)
それを聞くと、川手氏はおびえたように、キョロキョロとあたりを見廻みまわした。さりげなく装っているけれど、心の底では、何者か思い当る人物があるらしく見える。
悪魔の紋章 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
「助けてえ」と彼女はおびえきった相で一生懸命ついて来る。しばらく行くと、路上に立はだかって、「家が焼ける、家が焼ける」と子供のように泣喚いている老女と出逢であった。
夏の花 (新字新仮名) / 原民喜(著)
おびえたように叫んだ一人はつと浮き腰になり、すぐ何かいすくめられたように身体をこちんと固くした。他の女は手拭てふきを帯にはさんで見るからにいそいそと立ちあがった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
他人ひとにころされるうーと叫んだ声がまだ耳殻にこびりついていた。心はおびえきっていて、布団の中に深く首を押し込んで眼を閉じたままでいると、火柱が眼先にちらついた。
いのちの初夜 (新字新仮名) / 北条民雄(著)
見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い紫赤色しせきしょくを呈している。それよりも、信一郎の心を、おびやかしたものは、唇の右の端から、あごにかけて流れる一筋の血であった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
ふだんあんなに陽気で、罪のない悪戯いたずらをしては家中の者を笑わせていた千代子が、恐ろしい出来事のためにすっかりおびえ、美しいひとみは絶えず襲われているように落着おちつかなかった。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
江戸三百年、どんなに無辜むこの民が泣いたか知れない、おびやかされた牢屋のあとだ。
旧聞日本橋:17 牢屋の原 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
桜島に来て以来、このことは常住じょうじゅう私の心を遠くから鈍くおびやかし続けている。——
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
夜な/\ねむりをおびやかす無気味な夢魔を追い拂うことが出来なかったのであろう。
心に恐ろしいおびえがあった。その脅えははなはだ道徳的なものだった。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
そう言えばガラッ八の後ろに、大町人の若旦那といった若い男が、ひどくおびえた様子で、ヒョイヒョイとお辞儀をしているのです。
林冲といえば、梁山泊りょうざんぱく以外でも、「当代の小張飛しょうちょうひ」という勇名がある。それには一丈青も女ごころのおびえにふと吹かれたものか。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)