危惧きぐ)” の例文
二人が育って行くにつれ、母親にふと危惧きぐの念が掠めた。二人があまり気の合っている様子である。青春から結婚、それはかまわない。
蝙蝠 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
けれども、はいって来た紳士はしだいに彼の注意を喚起して、それがやがて疑惑となり、不信となり、遂には危惧きぐの念とさえなった。
「いや、汝の性質は、至って軽忽で、さわがしいばかりであって、そのため事を仕損じ易いから、わしはその点を危惧きぐしているのだ」
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
イタリア官憲の危険な遊戯に対する、警告的な危惧きぐや抗弁が、ところどころにはさんであった。確実なことはつかめないのである。
進もうとする吾々には周囲への躊躇ためらいがなかった。行く末に少しでも危惧きぐを抱いたなら、勇気はいつか砕かれていたであろう。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
由来毒をもって鳴るこのふぐなるものも料理に法を得ればなんら危惧きぐなくして、口福を満たされることは前申すとおりだ。
河豚食わぬ非常識 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
熱さえ出ればすぐ産褥熱さんじょくねつじゃなかろうかという危惧きぐの念を起した。母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
今までいつも、失敗への危惧きぐから努力を抛棄ほうきしていた渠が、骨折り損をいとわないところにまで昇華しょうかされてきたのである。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
彼が宮を追ひてまろび落ちたりし谷間の深さは、まさにこの天辺てつぺんの高きより投じたらんやうに、冉々せんせんとして虚空を舞下まひくだ危惧きぐ堪難たへがたかりしを想へるなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
その危惧きぐをミネはまたミネとして何となく感じていながら、それを貞子の、こまやかな心づかいであり、女としての閑子への思いやりとも理解していた。
妻の座 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
急にすべての事がなんだか思いもよらない方へ往ってしまいそうな危惧きぐが、其処には感じられないでもなかった。
ほととぎす (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
水戸は、今も自分が怪物団に見つけられはしないと危惧きぐしながらも、その位置を動くことはしなかった。もし動けば、たちまち見つけられそうであった。
地球発狂事件 (新字新仮名) / 海野十三丘丘十郎(著)
理由はわからないが、検校の言葉が父の心にある危惧きぐのおもいを裏づけたというように、……父は眉をひそめ眼をつむって、いっときじっとものおもいに沈んだ。
日本婦道記:墨丸 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
これを頭からね付けるようなことをしては、又世間の反感を買いはしないか、と云う危惧きぐがあった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
休んだ日には、山口へというよりも、その友情への危惧きぐと申しわけなさとで胸がいっぱいになった。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
かかる再生が日本人に可能かどうか、大なる希望と深い危惧きぐの念をもって僕はいまの祖国を眺める。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
息子むすこの容態もよくはなかった。彼女は二年来たえず危惧きぐのうちに暮らしてきた。そしてその危惧は、リオネロから残忍な才能でもてあそばれるだけにいっそう募っていった。
奪い去られるかも知れないという危惧きぐが、一挙に蟹江の情熱をかき立てたに違いありません。今久美子を失えば、自分の人生はもう終りだ。まったくそんな感じなのでした。
Sの背中 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
私だけはウナの裏にまたダッシュのウナがありはしないかと邪推し、嫉妬し、疑懼ぎくし……その我と我からかもす邪推や危惧きぐや、嫉妬の念に堪えやらずして、自分と自分からめった
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
その後ろには多勢の人達が非難と危惧きぐの眼を光らせて、ヂツと平次の方を見詰めて居ります。
後にはその暴挙に対して危惧きぐの念をいだき、次第に手を引いたという閲歴をも持つ人である。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
むやみに危惧きぐするのも不道徳かは知らぬが、一般に今日の論文は簡単過ぎる感じがある。
和州地名談 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
今後もそういう危惧きぐは夢にも思いがけないが、万一そういう不貞な心が起るとしても、それを予防するものはこの「純潔」を貴び、正しきを欲する性情の威力であると信じている。
私の貞操観 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危惧きぐを感じている。
葉子はこの時古藤とこんな調子で向かい合っているのが恐ろしくってならなくなった。古藤の目の前でひょっとすると今まで築いて来た生活がくずれてしまいそうな危惧きぐをさえ感じた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
すべての人に棄てられたるヨブは、いかに三人の来訪をよろこんだであろうか。遥かに三友を望みし時、彼の心は天にも昇るべくおどったであろう。しかしヨブにまた危惧きぐがないではなかった。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
すると、法水は眉間を狭めて、みるみるその顔に危惧きぐの色が波打ってきた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
日露開戦の当初にもまたあるいは同じ困難に陥りはせぬかという危惧きぐからして、当時の事を覚えている文学者仲間には少からぬ恐慌きょうこうき起し、額をあつめた者もなきにしもあらずであったろう。
彼の心から、若しもという危惧きぐが、ほとんど跡かたもなく薄らいで行った。
月と手袋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ぴんしゃんハネつけられないのがっけものと、お雪ちゃんとしても、多少危惧きぐしてかかったのでしょうけれども、それが存外物やわらかな手ごたえがあったものでしたから、まず安心していると
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
あなたは、だから、すべての小さな氣紛きまぐれや、感情の上の些細ささいな困難や躊躇や、單に一個人の傾向の度合や種類や強さ、やさしさなどに對する危惧きぐを乘り超えて直ぐにその結合に這入つて了ふでせう。
彼女は十二分に持っているんです……全然、あなたの危惧きぐですよ
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
賢なる母親は、あんまり年若く名をなした息子の盛名が、昨今、すこしなまっているので、なんとなく前途を危惧きぐしていた。地方の豪家と縁を結んでおけば——そんな下心がないともいわれなかった。
田沢稲船 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
はたして、危惧きぐは実現した。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
二人が育つて行くにつれ、母親にふと危惧きぐの念がかすめた。二人があまり気の合つてゐる様子である。青春から結婚、それはかまはない。
蝙蝠 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
でなければ、もし海上で、尊氏方の伏兵に、背後でも断たれたら、どうしようもないという、戦略上の危惧きぐだったかもわからない。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『つまりなんというか、いろいろ多くの複雑な精神上、物質上の影響や、不安や、危惧きぐや、気苦労や、ある二、三の観念や……その他そういったものの産物』
人間はふぐの有毒部分を取り除き、天下の美味を誇る部分をのみ、危惧きぐなく舌に運ぶことを発見したのだ。
河豚は毒魚か (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
いて自ら危惧きぐの念をあざけって、とう/\あの人のたもとの端を、左大臣にらせてしまったのであった。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
自殺するか、尼になるか、ともかくその一生を放棄する手段にでる、という危惧きぐが十分にあった。
竹柏記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
人生は何事をもさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょう危惧きぐ
山月記 (新字新仮名) / 中島敦(著)
善良なラインハルト夫人は、それらの理由もない危惧きぐについて、幾度も親切に彼女をたしなめてやらなければならなかった。そしてしばらくは彼女を安心させることができた。
マジャルドーの危惧きぐしている物質上の問題なぞは、何の関心でもあり得ないのであった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
みなさんは長途ちょうとのお疲れもあることとて、すべての心配と危惧きぐをすててとうぶんはゆっくりとお好きなものをたべ、お気にいったところを散歩して、健康を回復していただきましょう。
怪星ガン (新字新仮名) / 海野十三(著)
実に今回のバッタ事件及び咄喊とっかん事件は吾々われわれ心ある職員をして、ひそかにわが校将来の前途ぜんと危惧きぐの念をいだかしむるに足る珍事ちんじでありまして、吾々職員たるものはこの際ふるって自ら省りみて
坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
臆病おくびょうな驚きと躊躇ちゅうちょとで迎える事によって、倉地に自分の心持ちの不徹底なのを見下げられはしないかという危惧きぐよりも、倉地が自分のためにどれほどの堕落でも汚辱でも甘んじて犯すか
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
久良山三五郎の船と、平次の船は、凉み船の間を漕ぎ拔けて、橋架の下から顏を出すと、これはまた、一ときは大型の屋形船が一艘、滿船の危惧きぐはらんで、物々しくも沸き返つてゐるのです。
ようやく危惧きぐの念を抱き始めたものもある。強い刺激を受けたものもある。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
至高の権威を、詔勅におかんとしたのが太子だったのである。当時これはいかなる意味をもっていたであろうか。一言で云うならば、勢力ある氏族の専横を深く危惧きぐされた上での決断であった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
僕は自分の新しい生活が——僕としてよりも、僕達としての生活が、——自分の今後の仕事の上にどんな影を投げるものか、胸のおどるような期待と、同時に一種の危惧きぐをもたずにはおられません。