茂庭周防もにわすおう)” の例文
幕府の老中から通知があって、伊達陸奥守だてむつのかみの一族伊達兵部少輔ひょうぶしょうゆう、同じく宿老しゅくろうの大条兵庫、茂庭周防もにわすおう、片倉小十郎、原田甲斐かい
それはかつて茂庭周防もにわすおうと密会した小座敷で、男はまだ覆面のまま、酒を飲んでいた。甲斐はおくみに眼くばせをしながら坐り、おくみは出ていった。
おと年(寛文五年)の夏、塩沢丹三郎が毒死し、去年の正月には茂庭周防もにわすおうに死なれた。周防が寝ついていた百余日、病床をみまったのは、僅かに三度だった。
すすめたのは茂庭周防もにわすおうだと、しきりに悪声を放っているそうではないか
さらに茂庭周防もにわすおう、大条監物けんもつ、自分(原田甲斐)などが謁をたまわった。
万治の大変のとき、彼は茂庭周防もにわすおうの罪を鳴らした。
すると、茂庭周防もにわすおうのおもかげが眼にうかんだ。
「私は故人の茂庭周防もにわすおうと、ここにいる船岡との協力で、一ノ関の陰謀とたたかって来た、どうたたかって来たかは話すにも及ぶまいが、敵は一ノ関だけではなかった、まことの敵は大老酒井侯であり、侯の目的は伊達六十万石の改易にあった」