畏怖いふ)” の例文
彼らの宗教的畏怖いふの念はわれわれの想像以上に強烈であったであろうが、彼らの受けた物質的損害は些細ささいなものであったに相違ない。
天災と国防 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
戦場に立てば、驍名ぎょうめい敵を畏怖いふせしめるに足る猛将利三としみつが、小姓の手もからず、光秀の小袖からはかまをはく手助けまでしているのだった。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
北方にぐうを負うて信長を畏怖いふさせていた上杉謙信の血が、多少ともこの男の脈管に流れているのではないか、とさえ思わせられる。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
というのもやはり元禄の句であるが、天を仰いで闌干らんかんたる星斗に対する間には、天文に関する知識も働けば、宇宙に対する畏怖いふも生ずる。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
我我の魂はおのずから作品にあらわるることを免れない。一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏怖いふを語ってはいないであろうか?
侏儒の言葉 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
尊厳な叡知えいちと、一見遍在していて全知全能であるように思われることとにたいして、自分の常にいだいていた深い畏怖いふの情は
肉の消滅について何人なんびとよりも強い畏怖いふの念をいだいていた。そうして何人よりも強い速度で、その肉塊を減らして行かなければならなかった。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
迷妄めいもうやまず罪禍にまみれようとも、むしろそれを縁として、本来具有する仏性を自覚することに一大事因縁がある。——何事も畏怖いふするなかれ。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
かつては彼が記憶に上るばかりでなく、彼の全身にまで上った多くの悲痛、厭悪えんお畏怖いふ艱難かんなんなる労苦、及び戦慄せんりつ——それらのものが皆燃えて
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
師父しふに対する尊敬と、孫行者そんぎょうじゃへの畏怖いふとがなかったら、俺はとっくにこんなつらい旅なんかめてしまっていたろう。」
それは同時に、強権に対しては奴隷どれいのごとく従順な民衆の心から、強権に対する畏怖いふを取りのぞこうということだった。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
太古の人種と同じ様に一種畏怖いふの意味を持った宗教心が起こって来た。かかる宗教心は最早もはや数知れぬ長い時代の間、全く人心に忘れられていたのだ。
暗黒星 (新字新仮名) / シモン・ニューコム(著)
畏怖いふといつてもいいほどの何かみづみづしい感動だつた。僕は情慾の脈うちを感じた。そればかりか、からだの一部にひそかな充血をさへおぼえた。
夜の鳥 (新字旧仮名) / 神西清(著)
その忍苦の表情を見よ。彼は虚無に対抗している。重圧する畏怖いふの下に、黙々と憐れな人間の意図を衛っている。
温泉 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
傷けないばかりではない、一層明確にしたように感ぜられる。大石というものに対する、純一が景仰けいこう畏怖いふとの或る混合の感じが明確になったのである。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それは、生れ出たばかりの嬰児えいじが、広々とした空間に畏怖いふして、手足をちぢめ、恐れ戦くが如き感じであった。
火星の運河 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ローマ人カトーをしのぐような克己的な態度がワトソンを圧服した。ワトソンは木柵をつかんでいる自分の手が、ある畏怖いふのために、かすかに震えるのを感じた。
船医の立場 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
彼はソーニャを驚愕きょうがくと、畏怖いふと、何かぼんやりとした重苦しい疑惑の中に取り残して、そのまま出て行った。
あんなのを、屁理窟へりくつというのですね。科学。どうして僕は、あれほど科学を畏怖いふしていたのだろう。子供がマッチを喜ぶたぐいでしょうかね。いじらしいものだ。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
初めは一種の畏怖いふと親しみであったものが、逆にこうじて、茫然と限界に拡がり満ちる痴川の生存そのものをみ呪う気持が伊豆の憔悴しょうすいした孤独を饒舌じょうぜつなものにした。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
恰も猛虎もうこの絵の如く人を畏怖いふせしむるに足るけれども、見ように依ってはリョウマチの患者が骨を刺すような節々の痛苦をじっと我慢している時の表情に似ている。
その姿を見ただけで、はッと何か冷酷なものを彼らの胸に反射する親ゆずりの畏怖いふに駆られていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
お島の幼い心も、この静かな景色をながめているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の畏怖いふと安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手にすがっているのであった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
人々の心が畏怖いふにつつまれた中において、イエスは「事終わりぬ」と言った。これは「もうだめだ」という意味ではなく、かえって積極的に万事完了したとの意味である。
キリスト教入門 (新字新仮名) / 矢内原忠雄(著)
この厖大ぼうだいな建物は広くて、うすぐらいので、神秘的な深い畏怖いふの念をおこさせる。
問題はただかくのごとき想像の中で、果してどこまでは一応根拠のある推測であり、またどの点からさきが単に畏怖いふに基づいたる迷信、ないしは誤解であったろうかということである。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ふと娘が、いつも喫茶店などで見かける平凡な小娘たちの一人になり、四谷の屋敷やプールの現実に連続した時間の中に私はいた。娘への奇妙な畏怖いふの幻影が失われて、私は彼女を見た。
軍国歌謡集 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
けらお (頭上を見上げ、突然、一種の畏怖いふにとらわれたように叫ぶ)
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
だいたい召使バトラーなどというものは、傍観的な亢奮こうふんこそあれ、また現場に達しもせぬ捜査官が、何か訊ねようとして近接する気配を現わしたにしても、それになんらの畏怖いふを覚えるべき道理はありません。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
伸子は若い女らしく、ぼんやりした畏怖いふをその表情から感じた。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
という畏怖いふのみが先だって、信長が、武門の節義を正すためにえてした大乗的だいじょうてきな憤りまでを読み知ることはできないのである。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私が畏怖いふをもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。
黒猫 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
この虫に対しては比較にならぬほど大きくて強い人間にこうした畏怖いふに似た感情を吹き込むかがどうしてもわからない。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
なお拡大して云えばこの場合においては諧謔その物が畏怖いふである。恐懼きょうくである、悚然しょうぜんとしてあわはだえに吹く要素になる。その訳を云えばずこうだ。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
のみならず、この綽名を発見した或る上級生に畏怖いふに似た感情を抱かずには居られなかつた。同時に敵手ともして。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
成人おとなばかりの間にたった一人の子供では、可愛がられるのが当り前のようだが、この場合は、それに多分の原始宗教的な畏怖いふと哀感とが加わっているのである。
ほとんど差別のつかないものであった……多くの悲痛、厭悪えんお畏怖いふ艱難かんなんなる労苦、及び戦慄は、私の記憶に上るばかりでなく、私の全身に上った——私の腰にも
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
昼間は金毛の兎が遊んでいるように見える谿たに向こうの枯萱山かれかややまが、夜になると黒ぐろとした畏怖いふに変わった。昼間気のつかなかった樹木が異形いぎょうな姿を空に現わした。
闇の絵巻 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
蛇ぎらいというよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり畏怖いふの情をお持ちになってしまったようだ。
斜陽 (新字新仮名) / 太宰治(著)
子供は僕と同年位の男の子で、襤褸ぼろを着て、いつも二本棒を垂らしている。その子が僕の通る度に、指をくわえて僕を見る。僕は厭悪えんおと多少の畏怖いふとを以てこの子を見て通るのであった。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)
或いは平地人との遭遇の際に、興奮して赤くなったのかということも一考せねばならぬが、事実は肌膚の色に別段の光があって、身長の異常とともに、それが一つの畏怖いふたねらしかった。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
それは鉄の螺釘ねじくぎを方々に打ちつけて、上にはぎざぎざの鉄の忍返しのびがえしを打ってあった。なんという深い畏怖いふの感じを、それは起させたことであろう!
すると先生のまゆがちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられないかすかな不安らしいものであった。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
謙信自身が、親しく召寄せて訊くなどということは、あいだに無いことなので、男は何か落度でもとがめられることかと、畏怖いふしている容子であった。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分もこの老いさらぼえた山人に何とはなしに畏怖いふの念をいだいていたが、しかしその「山オコゼ」というのがどんなものだか知りたいという強い好奇心を長い間もちつづけていた。
物売りの声 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
背後に、元老の鶴屋北水の頑強な支持もあって、その特異な作風が、劇壇の人たちに敬遠にちかいほどの畏怖いふの情を以て見られていた。さちよの職場は、すぐにきまった。鴎座である。
火の鳥 (新字新仮名) / 太宰治(著)
節子と同じ屋根の下に暮して見た四月余りは短かかったと言え、可成かなり岸本の心持を変えた。かつ憎悪にくみをもって女性に対した時のような、畏怖いふ戦慄せんりつも最早同じ姪から起って来なかった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭きょうがい畏怖いふとに襲われた。
堺事件 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
むしろ、世界のきびしい悪意といったようなものへの、へりくだったおそれに近い。もはや先刻までの怒は運命的な畏怖いふ感に圧倒されてしまった。今はこの男に刃向はむかおうとする気力も失せたのである。
牛人 (新字新仮名) / 中島敦(著)
しかも昔話にまでなって、このように弘く伝わっているのを見ると、猿の婿入は恐らくある遠い時代の現実の畏怖いふであった。少なくとも女性失踪しっそうの不思議に対する、世間普通の解釈であった。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)