“賢俊”の読み方と例文
読み方 | 割合 |
---|---|
けんしゅん | 100.0% |
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
「されば、その薬師丸のみちびきで、資名どのの弟御、三宝院の僧、日野賢俊御坊にお会いできたのでございました」
“賢俊”の意味
《名詞》
賢く優れていること。また、その人。
(出典:Wiktionary)
(出典:Wiktionary)
“賢俊”の解説
賢俊(けんしゅん)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての真言宗の僧・歌人。第65代醍醐寺座主・東寺長者・大僧正。父は権大納言日野俊光。兄に日野資名・資朝。室町幕府初代将軍足利尊氏の腹心の一人。
建武の乱(1336年)で持明院統(後の北朝)の光厳上皇の院宣を足利尊氏に伝えるなど、幕府・北朝成立に主たる功績を果たした。室町幕府の初代武家護持僧(祈祷の霊力で征夷大将軍を守護する僧)を務め、並ぶ者のない権勢を得た。南朝護持僧の文観房弘真とは、真言宗の盟主の地位を激しく争ったとするのが伝統的通説だが、同時代史料を見る限り実際は文観とは緩やかな協調関係にあったとする説もある。
(出典:Wikipedia)
建武の乱(1336年)で持明院統(後の北朝)の光厳上皇の院宣を足利尊氏に伝えるなど、幕府・北朝成立に主たる功績を果たした。室町幕府の初代武家護持僧(祈祷の霊力で征夷大将軍を守護する僧)を務め、並ぶ者のない権勢を得た。南朝護持僧の文観房弘真とは、真言宗の盟主の地位を激しく争ったとするのが伝統的通説だが、同時代史料を見る限り実際は文観とは緩やかな協調関係にあったとする説もある。
(出典:Wikipedia)
“賢俊”で始まる語句