新羅シラギ)” の例文
高句麗は天智天皇の時代に新羅シラギに亡ぼされたが、そのはるか以前からの当時の大陸文化をたずさえて日本に移住していることは史書には散見しているところで
前年から今年にかけて、海の彼方の新羅シラギの暴状が、目立つてて置かれぬものに見えて来た。
死者の書 (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
この高麗コマ新羅シラギ滅亡後朝鮮の主権を握った高麗コウライではなくて、高句麗コクリをさすものである。
今日か明日、新羅シラギ問罪の為、筑前へ下る官使の一行があつた。難波に留つてゐる帥の殿も、次第によつては、フタタビ太宰府へ出向かれることになつてゐるかも知れぬ。手遅れしては一大事である。
死者の書 (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
高句麗は扶余フヨ族という。松花江上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済クダラ新羅シラギがあった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。