とら)” の例文
人間というものは肉体が極度に疲れてくると、脳細胞に不思議な変調を来すものと見えて、私はしょっちゅう奇怪な妄想にとらわれた。
動物園の一夜 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
「日本よりあたまなかの方がひろいでせう」と云つた。「とらはれちや駄目だ。いくら日本の為めを思つたつて贔負ひいきの引き倒しになる許りだ」
三四郎 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
ここばかりでなく、恐らくは、やぐらの上でも、武者溜むしゃだまりでも、支塁のここかしこでも、一瞬ことごとく同じ思いにとらわれたのではなかろうか。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それきり父は、滋幹の方から話しかけても相手にならず、何かしら考にとらわれている様子で、家に着くまで殆ど一語を発しなかった。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
覚悟をしていたことながら、瑠璃子は今更のように、不快な、悪魔の正体をでも、見たような憎悪ぞうおに、とらわれずにはいられなかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
畢竟ひっきょう、何物にとらわれて、日々新たなる心境を喪失してしまっている証拠で、芸術上の生命は根本的に奪われているといわねばならない。
太吉はさっきからむしろをかぶって隅の方にすくんでいた。重兵衛も言い知れない恐怖にとらわれて、再びこの旅人を疑うようになって来た。
木曽の旅人 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
ここで型に入るとは型にとらわれるのではなく、かえって型に成り切って、型自らが仕事するに至るという方がよいでありましょう。
益子の絵土瓶 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
夢見るような足取りで、無抵抗に台の上に押し上げられたのを見ると、こればかりは町娘の服装をしたお静のとらわれの姿だったのです。
もろい、移り易いようなもの、例えば幸福なんていう幻影イリュウジョンとらわれているような……そうではないのかしら? しかし結婚してしまえば
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
「事実にとらわれちゃいけないと言っている。シェキスピールの精神を充分伝えるように書いたものは事実に多少の間違があっても……」
ガラマサどん (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
かれらがここにとらえられていること——ウォールデンの道をゴロゴロ音をたてて通る荷馬車や馬車や鈴を鳴らす橇のはるかに下の
岩鼻に蹲居しゃがんでさわやかな微風に頸元くびもとを吹かれながら、持前のヒポコンデリアに似た、何か理由のわからない白日の憂愁にとらわれていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
……その盲情が、ズット前の猟奇座談で、私がこころみた漫談に刺激されて眼ざめた結果、こんな趣味にとらわれるようになった。
冗談に殺す (新字新仮名) / 夢野久作(著)
又自分たちが猥雑わいざつな心もちにとらはれ易いものだから、男女なんによの情さへ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫くわいいんの書にしてしまふ。
戯作三昧 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
イエスの愛と我らの信仰と、目と目とを合わせて相見る時、失意の境遇にありて希望が湧き出で、懼れと心配にとらわれた心に平安が臨む。
それはとらわれの繩を解かれたような、妄執もうしゅうがおちたような、その他もろもろの羈絆きはんを脱したような、すがすがしく濁りのない顔に返った。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
で、問題は欲そのもの、欲望自体ではなくて、「愛着のこころ」、「執着のこころ」、「とらわれのこころ」が、つまり苦の原因なのです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
すなわち罪を去れしかせば幸福臨まんというのである。最年少なるゾパルもまた依然として時代の思想にとらわれていたのである。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
けれども彼は眼前にある事柄にのみとらわれないで、進路を切開かねば成らないと思った——節子のためにも、彼自身のためにも。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
でも「さび」にとらわれないで、ある生命——実は、既に拓かれた境地だが——を見ようとして居る。「山路来て 何やら、ゆかし。すみれぐさ」
歌の円寂する時 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
自然に対しても、近代人は近江八景や、二見ヶ浦の日の出のような、伝習にとらわれた名所や風光で満足が出来ないのである。
高山の雪 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
平塚さんは、私が母性の保護に反対するのは「子供を自己の私有物視し、母の仕事を私的事業とのみ考える旧式な思想にとらわれているからだ」
茶の湯は道具沙汰にとらわれるというので半途から余り好まれぬようになったと聞いたが、時に利休も無く織部も無かった為でも有ろうけれど
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
子供とか外国の旅客とかは、今までの常識にはとらわれないから、とんでもない質問を出して、返答に困らせることが多い。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
弁護士出の政治家でなければ、政事の実際が判らないもののやうに思ふのは、ふるい時代の習慣にとらはれた人達の事である。
然しながらが造ったかたとらわれ易いのが人の弱点である。執着は常に力であるが、執着は終に死である。宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
「家庭や學校にとらはれてゐるからだ」と、義雄は無遠慮に云つた、こちらへ暗に勇の諷意ふういがあると思つたからだ。「教師などよしてしまひ給へ。」
泡鳴五部作:03 放浪 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
ここで源吉が、潔よく罷めて仕舞えば、あの恐ろしい、轢殺の魅力なんかに、とらわれずに済んだのだろうが、彼の不幸な運命ほしはそうはさせなかった。
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
学識にとらわれるな、学識が最後のものではない、最後の統一、唯一の実践の原理が重大なのである、かく孔子は智慧の人子貢に警告したのであった。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
これもとらわれ過ぎるようになると随分弊害が多うございますが、しかし文学と科学との相違もここにあるのであって
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
私はこの事実をわれらの第一義欲または宗教欲の発動とも名づけよう。あるいはこんなことを思うのがすでに陳い夢にとらえられているのかも知れない。
ところが素々もともと事大じだい思想にとらえられていた朝鮮は左顧右眄さこうべん、容易に日本に信頼するの態度を示さざる結果、ついにあんな仕末になってしもうたのである。
(間)うつろな深い井戸へ投げこまれたとらわれびとのように、わたしは居場所も知らず、行く末のことも知らない。
お松の見つめている一角というのは、お濠を隔ててお城と、お代官の陣屋との間に挟まれたところで、そこには罪人をとらえる牢屋があるのであります。
大菩薩峠:13 如法闇夜の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
自由に相手を選んでゐた境涯きやうがいから、狭いとらはれのをりの中で、あてがはれためすをせつかちに追ひまはすやうな、空虚な心が、ゆき子との接吻のなかに
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
親達が失望して情ながるかおは手紙の上に浮いて見えるけれど、こうなると妙に剛情ごうじょうになって、因襲の陋見ろうけんとらわれている年寄の白髪頭しらがあたまを冷笑していた。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
私はだいち肉体的苦痛に圧倒されそうでした。それからあなたがたを呪う心と戦わねばなりませんでした。私の心は罪と苦しみとにとらわれていたのです。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
ドストエフスキーの文章はカラ下手へたくそでまるで成っていないといってツルゲーネフの次位に置き、文学上の批判がともすれば文章の好悪にとらわれていた。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
彼は云ひやうのない不快な、もの悲しい考へにとらはれぬいて、それから夜明前にほんの一眠りしただけであつた。
煤煙の匂ひ (新字旧仮名) / 宮地嘉六(著)
精霊がこのとおり素直にしてるとは、この古い箱の中にとらわれとなってるとは、まったく訳がわからないことだ!
文芸というものについて今でもとらわれた概念をもっているけれど、公平に現実を正視したら、英米の文芸の主潮が変ったことを、認めずにいられぬだろう。
主人夫婦しゆじんふうふくもらぬかほ只管ひたすら恐怖きようふとらへられた勘次かんじくびもたげしめた。こと内儀かみさんのむかへて態度たいどが、かれのいひたかつた幾部分いくぶぶんやうやくにけしめた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
そんな自己的な感情にとらわれず、芸術家のおおらかな気持ちがわかるということは、大変嬉しいことでした。
お蝶夫人 (新字新仮名) / 三浦環(著)
ところが、日数ひかずが経つに従って、一つの已みがたい熱望が彼等をとらえた。それは陸地に対する憧憬あこがれであった。
そして、それはついに賛歎となってすべての人々をもとらえた。王もまた三嘆之を久しうして去ったという。
うつす (新字新仮名) / 中井正一(著)
今は私はとらわれの身である。私の体は監獄の中に鉄鎖に繋がれており、私の精神は一つの観念の中に監禁されている。恐ろしい、血なまぐさい、一徹な観念だ。
死刑囚最後の日 (新字新仮名) / ヴィクトル・ユゴー(著)
我をとらへたるものゝ誰なりしやを知らざりしなり、今にして思へば夢と夢とが相接続する如く、我生涯の一期と二期とは懵々ぼう/\たるうちにうつりかはりたるなるべし。
我牢獄 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
不思議のローマンチックに自分は蘇生よみがえって、またも真昼の暖かいみちを曲りまがってく……、しかし一ぺんとらわれた幻影から、ドウしても私は離れることはきない
菜の花物語 (新字新仮名) / 児玉花外(著)
また一歩足を水に入れねば思う壺へ竿先が達し得ぬというのを知りながら足を濡らしてはならぬという掟にとらわれて、無理に丘の石の上に立つのもおかしいものだ。
(新字新仮名) / 佐藤垢石(著)