沈湎ちんめん)” の例文
この日も君江はこの快感に沈湎ちんめんして、転寐うたたねから目を覚した時、もう午後三時近くと知りながら、なお枕から顔をあげる気がしなかった。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
沈湎ちんめんたるその眉を見て、城太郎はひそかに怖れをなした。馬糧小屋の中で小茶ちゃんと遊んだことが分ったのではないかと思って——
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
俗見の傀儡かいらい同様だッた俺の半生を諷刺し、俺を悲運に沈湎ちんめんさせた卑小な気質に報復するのに、これこそは恰好な方法だと思った。
湖畔 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
夏川は今もなほ自ら淪落の沼底に沈湎ちんめんするが故に自らのゐる場所を青春と信じてゐた。青春とは遊ぶことだと思つてゐたのだ。否、々、々。
母の上京 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
暗い地下の隠れ部屋に左膳の思い出を抱いて独り沈湎ちんめんしているものの、かのお藤、一度左膳を得て、はたしてこのままにもくするであろうか。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
だからかれの目が下から見やっている一方、かれの顔には深いねむりのときの、ぐったりした、ふかく沈湎ちんめんしたような表情があらわれていた。
文学ではとても生活する能力はないものと断念あきらめ、生中なまなか天分の乏しいのを知りつつも文学三昧に沈湎ちんめんするは文学を冒涜する罪悪であると思詰め
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
彼は風雨も、山々も、あるいはまた高天原たかまがはらの国も忘れて、洞穴をめた脂粉しふんの気のなかに、全く沈湎ちんめんしているようであった。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
このシンフォニーを聴く者は、どんな絶望と悲嘆に沈湎ちんめんする者でも、「まだしも自分は幸福であった」と感ずるであろう。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
東は花柳に沈湎ちんめんせざるもののおのづからにして真福多く天佑有るを云ひ、西は帝王の言の出でゝかへらざることを云へり。
東西伊呂波短歌評釈 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
もちろん創作家が身辺雑記に沈湎ちんめんし、或いは概念を伝達すればこと足る底のイズム小説に終始し、或いは張三李四を相手の世相小説に甘んじている間は
翻訳遅疑の説 (新字新仮名) / 神西清(著)
そして時によると、幾日も終日瞑想のうちに過ごし、幻を見る人のように、恍惚こうこつと内心の光燿こうようとの無言の逸楽のうちに沈湎ちんめんしていた。彼は生活の方式をこう定めた。
酒屋しゆをく沈湎ちんめんすること、それが俺の命の全部であつた。かうして十年をすごして来たとき俺は荒淫逸楽に飽きて来た。そして其生括の終りの幕を引いてくれたのは愛子である。
畜生道 (新字旧仮名) / 平出修(著)
その点では似ているけれどルオーの中にあるその主観沈湎ちんめんのデガダンスに対して、野生な生命力の溢れを追求する仕方にあるデガダンス(近代的な)を武者は感じないのね。
宋思芳はだんだん鴉片を煉るに慣れ、追々鴉片の醍醐の味に、沈湎ちんめんするように思われた。
鴉片を喫む美少年 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
社会の陰処いんしょに独り醜をほしいままにするにあらざれば同類一場の交際を開き、豪遊と名づけ愉快と称し、沈湎ちんめん冒色ぼうしょく勝手次第に飛揚して得々とくとくたるも、不幸にして君子の耳目に触るるときは
日本男子論 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
長年喰うや喰わずの惨めな生活に沈湎ちんめんしておりましたせいか、資産を作りました今日でも、非常に猜疑心に富んで人と語る時には常に上眼遣いをして相手を見る不愉快な癖があります。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
そして、近頃ちかごろはだいぶ技法ぎはふにも自信じしんたが、うん左右さいうされてしまふ境地きやうちだけはどうにも仕方しかたがなく、ときにあまりに衰運すゐうん沈湎ちんめんさせられると、ちよつと麻雀マアジヤンにも嫌厭げんえんたるものをかんじる。
麻雀を語る (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
醒めれば、沈湎ちんめんと暗くなり、酔えば、まなこに妖気をふくんで、底も知れない泥酔に陥ちて寝てしまう。——女たちが、体に触れると
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
国の東西時の古今を論ぜず文明の極致に沈湎ちんめんした人間は、是非にもこういう食物を愛好するようになってしまわなければならぬ。
妾宅 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
三年目にはもう名君振りの偽装をかなぐり捨てて、歌舞音曲と酒池肉林の生活に沈湎ちんめんして居りました。
かつて愉快を知らないが、常に恍惚としている。沈湎ちんめんすることがその生命である。人類の歴史も彼らにとっては、ただの一些事さじにすぎない。その中にすべては含まっていない。
それからどちらかと云ふと、禅超の方が持物にぜいをつくしてゐる。最後に女色に沈湎ちんめんするのも、やはり禅超の方が甚しい。津藤自身が、これをどちらが出家だか解らないと批評した。
孤独地獄 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
今も、兵部は、沈湎ちんめんとしたおもてを、夕方の打水に濡れた樹々に向けて、もう仄暗くなりかけている茶室の端に坐って思わずつぶやいた。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その疾苦のうちに沈湎ちんめんしながらも、モーツァルトは、妻のコンスタンツェと友人達を愛し続けた。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
ああ思えば唯うらうらと晴渡る春の日のような文化文政の泰平に沈湎ちんめんして天下の事は更なり
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
呂布は、王允にいざなわれて、竹裏館の一室へ通されたが、酒杯さかずきを出されても、沈湎ちんめんとして、けぬ忿怒ふんぬにうな垂れていた。
三国志:03 群星の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして昼見た夢の、ふるさとの、じじやらばばやら女房子などについひかれて、味ない酒をただ沈湎ちんめん仰飲あおっていたが
そして肉体のぬし沈湎ちんめんとして終日ひねもす、白磁の牡丹にうつつな眸を消耗したまま蒼白あおじろい秘密の夢をみているのだった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「おことばですが」と、宋江は夜来やらい沈湎ちんめんたるおもてを振り上げて「——私は長官の客で鄆城県うんじょうけん張三ちょうさんと申す旅人、賊をはたらいた覚えはありません」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それは、安藤伊賀守の娘聟むすめむこ——菩提山ぼだいさんの城主竹中半兵衛だった。病身なので、酒ものまず、また始終一言も発せず、席に沈湎ちんめんとひかえていたからであった。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
といって、そんな顔いろも愚痴も人には示さない宗矩だけに、ふと、沈湎ちんめんと独りの想いに耽ることが多かった。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
安政の大獄にあの壯烈な殉國死をとげた人にして、平常、かくの如き沈湎ちんめんな謙讓を洩らしてゐるのである。
折々の記 (旧字旧仮名) / 吉川英治(著)
その小野忠雄には、彼が酒色に沈湎ちんめんしていた頃、赤坂溜池のほとりで、馬上から青痰あおたんをかけられた恩人である。にもかかわらず、二人の武士は武士の礼を取りに来たのだ。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
去年、家を去って、一先ずここの温泉宿ゆやど沈湎ちんめんしていた環は——いや内蔵吉は、その宿でお寿々の世話になったのが縁で——金がなくなった頃からつい女の家へ移っていた。
山浦清麿 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
沈湎ちんめんと、今、弟子の前に俯向うつむいている清麿の青白いおもてには、それがありありと刻まれていた。
山浦清麿 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
静かに起って、客間のふすまを開けた。沈湎ちんめんと、灯りを横に、坐りくたびれていた郡兵衛の顔が
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
沈湎ちんめんと腕みしたまま、いつぞやの雪の日からまだ下駄げた穿いて一歩も外へ出ていなかった。
死んだ千鳥 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
杯の酒にも浮かず、玄徳がしみじみいうと、諸将みな沈湎ちんめん、頭を垂れてすすり泣いた。
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
沈湎ちんめんとして青じろいおもてに、どこか策士的なふうのある多田蔵人ただのくろうどと、北面の侍所にごうの者として聞えのある近藤右衛門尉との訪れは、この二人の組みあわせを考えただけでも、時節がら
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
韓暹かんせんは始終、沈湎ちんめんと聞いていたが、呂布の書簡をひらいて遂に肚を決めたらしく
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それまで、沈湎ちんめんひたいづえついていた清十郎が、どう気をとり直したか、唐突に
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「あの風貌は殿上でもだいぶ損していような。口かずも多くはきかず、いつも片目まばゆげに、沈湎ちんめんと坐っているとか。それでは錚々そうそうたる列臣のあいだにあっては、なお精彩がないはずだ」
彼は、しばらく沈湎ちんめん俯向うつむいていた。ここも、三日の仮の宿だった。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
依然たるにらめッ子。……ただ婆惜の蘭瞼らんけんがほんのりと酒に染まり、宋江も酔って沈湎ちんめんといるだけだった。いや夜も更けたし、宋江は帰るに家も遠く、進退きわまったともいえばいえる姿であった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そしてその後を、ややしばし、沈湎ちんめんとさしうつ向いているのだった。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じっと、沈湎ちんめんしているかと思えば、ぷいと出て、酔って帰る。
山浦清麿 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
沈湎ちんめん、馬上に暗涙をむ老将もあれば、憤涙をこぶしで拭って
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
沈湎ちんめんとただ独り、しょくにうつむいて、物思わしく在る人に
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いや、男の沈湎ちんめんには、妻以上の欝勃うつぼつがつつまれている。
死んだ千鳥 (新字新仮名) / 吉川英治(著)