糸屑いとくず)” の例文
旧字:絲屑
糸屑いとくずを払い落す為であったかも知れぬ。からだをくねらせて私の片頬へ縫針を突き刺した。「坊や、痛いか。痛いか。」私には痛かった。
玩具 (新字新仮名) / 太宰治(著)
老母は糸屑いとくずたもとにたからせて、暗い茶の間で湯を沸かしにかかった。車井戸の釣瓶つるべが元気よく幾たびも庭の隅できりきりと鳴る。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
糸子は床の間に縫物の五色を、あやと乱して、糸屑いとくずのこぼるるほどの抽出ひきだしを二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
窓の下はコールタのげたトタンぶきの平屋根で、二階から捨てる白粉おしろい歯磨はみがきの水のあとばかりか、毎日掃出はきだちりほこりに糸屑いとくずや紙屑もまざっている。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それだのに柵は俺のことを糸屑いとくずほどにも愛していなかった。あの女の恋人は夏彦であった。俺の弟を愛していたのだ。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それから、お楽の手の爪の中につむぎ糸屑いとくずが、ほんの少しだが入っている、抱きついて背中を刺された時掻きむしったんだね、紬を着るのはたいがい男だ
節子はむきになった兄をなだめるように、手を伸ばしてはかまに附いている糸屑いとくずを取ってやりながら云った。
おばな沢 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
お今は淋しげに自分を眺める静子に言いかけて、糸屑いとくずを払いながら起ちあがると、浅井の着替えをそこへ持ち出して来た。翌朝あした着て行く襦袢じゅばんが、そこに出来かけていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
現に江戸初期の長崎貿易は、主として支那シナからの絹糸の買入れを目あてとしていたくらいで、かの土井大炊頭どいおおいのかみ糸屑いとくずの逸話が、読本よみほんにもっていて女たちもよく知っている。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
盆に乗せるとそれを持って、前垂まえだれ糸屑いとくずを払いさま、しずかに壇を上って、客の前にひざまずいて
政談十二社 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
何か黒塗の処々げた箱を使うのでしたが、その辺は綺麗に片附いていて、糸屑いとくずなど散らかっておりません。解き物などをするのにも、長いのは皆そろえてしばって、たとうへ入れてあります。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
その糸屑いとくずも唇にくわえたまま、なぜか、相良金吾の目にいつまでも、消えない怒りが燃えていました。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そうして先刻さっき裁縫しごとをしていた時に散らばした糸屑いとくずを拾って、その中からこんと赤の絹糸のかなり長いのをり出して、敬太郎の見ている前で、それを綺麗きれいり始めた。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
主計はそれを穿き、はさみ糸屑いとくずや針を、手作りらしい小箱にしまった、都留は「お片付け申しましょう」といって、その箱のほうへ手を差出した、主計は渡そうとしながら
晩秋 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、頭脳あたまがのうのうして、寿命がちぢまるような鬱陶うっとうしさを感じた。お島は糸屑いとくずを払いおとして、裏の方にある紙漉場かみすきばの方へ急いで出ていった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
針箱と糸屑いとくずの上を飛び越すようにまたいで、茶の間のふすまを開けると、すぐ座敷である。南が玄関でふさがれているので、突き当りの障子が、日向ひなたから急に這入はいって来たひとみには、うそ寒く映った。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「……すると独仙君はああ云う好人物だから、全くだと思って安心してぐうぐう寝てしまったのさ。あくる日起きて見ると膏薬の下から糸屑いとくずがぶらさがって例の山羊髯やぎひげに引っかかっていたのは滑稽こっけいだったよ」
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)