糢糊もこ)” の例文
東南の方大富士がスラツと立つて裾を曳く、その右に目近く南アルプス連峯、甲府盆地は朝靄の糢糊もことして人生生活はまだ見えない。
釣十二ヶ月 (新字旧仮名) / 正木不如丘(著)
野と山にはびこる陽炎かげろうを巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷ひとはけなすり付けた、瀲灔れんえんたる春色が、十里のほかに糢糊もこ棚引たなびいている。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
自分は空しくその額面を仰いで見たが、早過ぎたといっても、もう日は廻って、薄暗い堂内の空気は糢糊もことして画面を塗りつぶしています。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
始よりその人を怪まざらんにはこのとがむるに足らぬ瑣細ささいの事も、大いなる糢糊もこの影をして、いよいよ彼がうたがひまなこさへぎきたらんとするなりけり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
ラサ府がはるかに東北の方に彷彿ほうふつと見えて居るのみならず、法王の宮殿も糢糊もこの間に見えて居りますと、幸いにきも帰りも好天気であったものですから
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
糢糊もこたる暁色げうしよくの中に藍鼠あゐねずみ色をした円錐けいの小さい島の姿が美しかつた。山麓に点点てんてんたる白い物は雪であらうと云つて居たが、望遠鏡で望むと人家じんかであつた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
これを過ぐれば左ににおうみ蒼くして漣漪水色縮緬ちりめんを延べたらんごとく、遠山糢糊もことして水の果ても見えず。左に近く大津の町つらなりて、三井寺みいでら木立に見えかくれす。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
昨夜の二更にこう、大雨の最中に、しかじかの処を廻って居りますと、忽ちに一つの怪物が北の方角から参りました。上は四角で平らで、むしろのようで、糢糊もことして判りません。
きょうたりふつたり、煙波糢糊もこ、水光天に接するばかり、何も無くして水ばかりであった。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
濛々もうもうと立ち上がる湯煙ゆげむりと窓からさす朝日の光との中に、糢糊もことして動いている。
戯作三昧 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
糢糊もこの間にきて游ぶにあらざるかを疑ふ、三浦半島と房総と、長虫の如くねりて出没す、武甲の山は純紫にして、蒸々たる紅玉の日、雲の三段流れにみ入りて、眩光げんくわうを斜に振り飛ばすや
霧の不二、月の不二 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
玄々不識のうちにわれは「我」を失ふなり。而して我もすべての物も一に帰し、広大なる一が凡てを占領す。無差別となり、虚無となり、糢糊もことして踪跡そうせきすべからざる者となるなり。澹乎たんこたり、廖廓れうくわくたり。
松島に於て芭蕉翁を読む (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
元来伏木ふしき直江津間の航路の三分の一は、はるかに能登半島の庇護ひごによりて、からくも内海うちうみ形成かたちつくれども、とまり以東は全く洋々たる外海そとうみにて、快晴の日は、佐渡島の糢糊もこたるを見るのみなれば、四面しめん淼茫びょうぼうとして
取舵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ただの夢ではない。糢糊もこたる夢の大いなるうちに、さんたる一点の妖星ようせいが、死ぬるまで我を見よと、紫色の、まゆ近くせまるのである。女は紫色の着物を着ている。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
前にいう通り、この五輪の石塔のぬしの何者だということは、碑面にはまさしくきざんではあるが、暮色糢糊もこたるがために、読むことができなくなっていました。
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
東の方は村雨むらさめすと覚しく、灰色の雲の中に隠見する岬頭こうとういくつ糢糊もことして墨絵に似たり。それに引きかえて西の空うるわしく晴れて白砂青松に日の光鮮やかなる、これは水彩画にもたとうべし。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
濛々もうもうと立上る湯煙と窓からさす朝日の光との中に、糢糊もことして動いてゐる。
戯作三昧 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
放縦ほうしょうにしてまとまらぬうちに面白味のあるものでも、精緻せいちきわめたものでも、一気に呵成かせいしたものでも、神秘的なものでも、写実的なものでも、おぼろのなかに影を認めるような糢糊もこたるものでも
作物の批評 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)