遠距とおざ)” の例文
このことに気付かない筈はないと思ふが、知りすぎるために、却つて潜在的に傷を遠距とおざかり、労はらうとする不可抗力を受けるのであらうか。
「ええ、ままよ」そんなことを呟いて彼の遠距とおざかる跫音あしおとがしたが、翌朝行人によつて、そこから幾らも離れない路上に縊死をとげたネルヷルが発見された。
牧野さんの死 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
余り考へすぎたために其の考へが段々私自身から遠距とおざかり、結局私はまるで私とは無関係な考へをあの頃思ひつめてゐたのだらう。私はあの頃よく街を歩いた。
訣れも愉し (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
解説に費す百万の語も心のまことの姿から遠距とおざかるためにしか用ひられないものである。恐らく行為が、まことに近い解釈を与へる唯一の手掛りとなるだけだらうから。
狼園 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
自分を棄てて遠距とおざかつた男の噂として、ききたくない潜在意識がはたらいてゐるせゐだとも思へなかつた。思ひだすと、卓一の場合ほど科白のない恋愛もなかつたのだ。否。
酔漢の跫音が遠距とおざかるまで、何かヂインとする闇の呼吸が聞えてゐた。ところが跫音が愈聞えなくなつてしまふと、何かしら不安な胸騒ぎがソワソワと何だか後悔のやうに感じられてきた。
群集の人 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
文明開化を謳歌するそのかみの一通人も、感情生活の機微に於ては孔孟を遠距とおざかること五十歩の百歩であつた。いちの父は娘の犯した行動の女らしからぬ劇しさを、憐れむよりも憎もうとした。
母を殺した少年 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
雨宮が面喰つて訪ねてきたら、実は昔のない生活を始めたいといふ女の希望であり自分の考へもさうだから、暫く蕗子の生活から遠距とおざかつてくれるやうにと正直に打開けて話すつもりであつた。
雨宮紅庵 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)