淹留えんりう)” の例文
柏軒は癸亥の歳に将軍家茂に扈随して京都に往き、淹留えんりう中病に罹り、七月七日に自ら不起を知つて遺書を作つた。其文はかうである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
翁は杜国を訪ふために、今でさへ交通の不便な、この畠村にやつて来て、そしてそこにかなりに長い淹留えんりうをしたらしかつた。
伊良湖岬 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
雨には即ち淹留えんりうし晴には即ち行き広島に至りて父の墓に謁し赤間関に淹留すること半月、年々摂酒附商舟、磊落万罌堆岸頭、清※尤推鶴字号、駕人酔夢楊州の詩あり。
頼襄を論ず (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
蘭軒は此年何月に至るまで長崎に淹留えんりうしたか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
加藤先生とは加藤定斎ていさいである。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸に淹留えんりうすべき期日であらう。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)