“東伏見宮”の読み方と例文
読み方 | 割合 |
---|---|
ひがしふしみのみや | 100.0% |
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
“東伏見宮”の解説
東伏見宮(ひがしふしみのみや)は、明治時代、小松宮彰仁親王(旧・仁和寺宮嘉彰親王)が一時、称していた宮号。
東伏見宮家は、小松宮の養子・世嗣となっていた依仁(よりひと)親王(伏見宮邦家親王の第17王子で小松宮の弟)が新たに創立した宮家の名であり、伏見宮家の分家。依仁親王には継嗣が無く宮家としては一代で断絶したが、久邇宮邦彦王第3王子で臣籍降下して華族となった東伏見邦英伯爵により同宮家の祭祀が継承された(東伏見家 (伯爵家)参照)。ただし、それとは別に東伏見宮家自体は依仁親王妃周子が1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱するまで存続している。
(出典:Wikipedia)
東伏見宮家は、小松宮の養子・世嗣となっていた依仁(よりひと)親王(伏見宮邦家親王の第17王子で小松宮の弟)が新たに創立した宮家の名であり、伏見宮家の分家。依仁親王には継嗣が無く宮家としては一代で断絶したが、久邇宮邦彦王第3王子で臣籍降下して華族となった東伏見邦英伯爵により同宮家の祭祀が継承された(東伏見家 (伯爵家)参照)。ただし、それとは別に東伏見宮家自体は依仁親王妃周子が1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱するまで存続している。
(出典:Wikipedia)