韮崎にらさき)” の例文
殿下は三時少し過ぎに一同を従えさせられ、自動車で韮崎にらさき駅へ向けて御出発になった。四時十分の列車で御帰京遊ばされる筈である。
二万余人と数えられた兵数が、まだ一戦もまじえぬのに、旗本以下、彼に附随して韮崎にらさきまで帰ったもの四千ばかりに過ぎなかった。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
出立たちいでうかゞひ居たり此三人の中頭立かしらたちたる一人は甲州にて名高き惡漢わるもの韮崎にらさき出生しゆつしやうの雲切仁左衞門といふ者なり若年じやくねんころより心がうにして眞影流しんかげりう劔術けんじゆつ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
ニガイ 甲府・韮崎にらさきあたりの名物として知られている煮貝は、富士川の水運を利用して入って来たものだが、まだそのあわびの生産地はどこであるか知らぬ。
食料名彙 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ちょうどその日の薄暮はくぼ韮崎にらさき方面からこの甲府城下へ入り込んだ武者修行ていの二人の者。前に進んでいたたくましいのが、何を思い出したか、刀の柄袋つかぶくろちょうと打って
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
帰りがけに、雨も小止みになったので、自動車で韮崎にらさきの町を突き切り、釜無川の東岸に沿うて、露出しているところの七里岩を、向う岸の美しい赤松の林から眺めた。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
はじめ、韮崎にらさきという町に宿を取って、春の来るまで、付近のようすを見てまわった。そこは釜無川かまなしがわの東がわで、川上のほうには、むかし武田勝頼の拠った、新府城のあとがある。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
韮崎にらさきへ通う野道である。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
翌日は昨日の疲れと、韮崎にらさきから睦沢へ出る道を誤って大迂廻した為とで、御岳へ着いたのは午後二時頃であった。
金峰山 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
父祖代々の住居である躑躅つつじさき居館きょかんのほかに、「御新府」と称する新城を、甲州韮崎にらさきほとりに築いて、もうそこへ引き移っているという事実であった。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
韮崎にらさきから信濃境へ行く道とわかれて、有野から白根山脈の前面を圧するところ。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「どうじゃ……これを見ても、信玄は、甲斐かい一国を城としていた意気がわかろう。——しかしすでに、子の勝頼となっては、甲府、韮崎にらさきのみしか、彼の城でない」
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
或はかく考えた方が正しいかとも思うのは、各所に福地に関係ある社があるからで、巨摩郡の河原部村即ち今の韮崎にらさき町にある福地八幡なども、元は福地権現であったろう。
マル及ムレについて (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
韮崎にらさきから西へ、こまヶ岳たけ仙丈せんじょうなどのすそって、伊那の高遠たかとおへ越えて行く山道がある。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その甲府と小太郎山こたろうざん中間ちゅうかんあたり、すなわち釜無川かまなしがわのほとり、韮崎にらさき宿しゅくから御所山ごしょやますそあたりにかけて、半里あまりの長さにわたっている、人である、火である、野陣やじん殺気さっきである。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
諏訪すわ以南、乙骨おつこつヶ原までの七里のあいだに、よく北条勢の数万を牽制けんせいしつつ、やがて家康の後陣と合して、新府韮崎にらさきの地形にり、浅生あそうヶ原をはさんで対陣幾十日に及び、さしもの北条の大軍をして
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)