“宥快”の読み方と例文
読み方 | 割合 |
---|---|
いうくわい | 100.0% |
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
「懐師方外辱交情。寄贈芭蕉数本清。従此孤吟風雨夕。応思香閣聴渓声。」宥快は居る所の室を清音閣と云つて、其清音は滝の川の水声を謂つたものと見える。
“宥快”の解説
宥快(ゆうかい、興国6年/貞和元年(1345年)- 応永23年7月17日(1416年8月10日))は、南北朝時代から室町時代中期にかけての真言宗の学僧。父は藤原実光とされるが定かではない。字は性厳。京都の出身。
19歳で高野山に上り宝性院信弘について密教を学び、1374年(応安7年・文中3年)師の跡を継いで宝性院の院主となった。さらに山城国山科安祥寺の興雅に師事して安祥寺流を受け、高野山における密教の学問(事相)を大成した。宥快の学派は宝門と呼ばれ、長覚の寿門と高野山の密教学を二分し、真言宗内では根来寺の頼瑜や東寺の杲宝と並び称された。
密教の一派「立川流」を批判した書、『宝鏡鈔』を著したことでも知られる。
(出典:Wikipedia)
19歳で高野山に上り宝性院信弘について密教を学び、1374年(応安7年・文中3年)師の跡を継いで宝性院の院主となった。さらに山城国山科安祥寺の興雅に師事して安祥寺流を受け、高野山における密教の学問(事相)を大成した。宥快の学派は宝門と呼ばれ、長覚の寿門と高野山の密教学を二分し、真言宗内では根来寺の頼瑜や東寺の杲宝と並び称された。
密教の一派「立川流」を批判した書、『宝鏡鈔』を著したことでも知られる。
(出典:Wikipedia)