家康は、開城をゆるす——と城内へ云い送って、翌七月三日、大須賀康高おおすがやすたかに、武装解除の命をさずけて、城中へやった。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「今朝から、お居間は、いと静かだ。——桑名から来た左衛門尉忠次どのや、大須賀康高おおすがやすたかどのなどの、老臣ばかりをよばれて……今日も何やら御熟議らしい」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それが、草ほこりを立てて、一瞬に、兵糧時間の休息から戦うべきすがたに移るまでの間に——一方、東軍徳川方の部将、大須賀康高おおすがやすたか岡川長盛おかがわながもりなどの追跡隊は
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
追跡隊は、右翼、左翼にわかれ、右の千八百人は、大須賀康高おおすがやすたかが、指揮し、左の千五百五十人は、榊原康政さかきばらやすまさ本多康重ほんだやすしげ穴山勝千代あなやまかつちよなどが、部将として、急ぎにいそいだ。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また、北門の戌亥口いぬいぐちに配するに、水野忠重みずのただしげ大須賀康高おおすがやすたか。そのほか物々しい軍勢をおき、西部方面は、これを信雄の軍にまかせ、遊軍として、石川伯耆守数正いしかわほうきのかみかずまさを、全陣のわきに備えた。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)