遠方おちかた)” の例文
時雨しぐれの通りこせし後は林のうちしばし明るくなりしが間もなくまた元の夕闇ゆうやみほの暗きありさまとなり、遠方おちかたにてつつの音かすかに聞こえぬ。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
あの、薄煙うすけぶり、あの、靄の、一際夕暮を染めたかなたこなたは、遠方おちかたの松のこずえも、近間なる柳の根も、いずれもこの水のよどんだ処で。
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
集外三十六歌仙里見玄陳歌にも「遠方おちかたに夕告鳥の音すなり、いざそのかたに宿りとらまし」とあって、拙宅の鶏に午後四時にまって鳴くのがある。
今年の最初の雪だというに、江戸に珍らしく五寸も積もり、藪も耕地も白一色、その雪明りに照らされて、遠方おちかた朦朧もうろうと見渡されたが、命ある何物をも見られなかった。
名人地獄 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それは寂しい秋の午前あさであった。こまかい霧雨が壁に降りかかり、すべてのものが——空も建物も裸になった樹々も、霧にとざされた遠方おちかたも——おしなべて灰色に見えた。
碧眼 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
夕靄がけぶるように野末にたちめ、ものの輪廓が、ほの暗い、はるか遠方おちかたにあるように見えた。道ばたに三本立っている見あげるようなもみの木までが、まるで泣いてでもいるようにうるんで見えた。
親ごころ (新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
遠方おちかたより波の境を滑りて8160
逃げ去りて、遠方おちかた
の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴菜ぬなわつるが、水筋をい廻る——空は、と見ると、おおいかかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠方おちかたは遠方なりに遮って
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
紋太夫はきっと眼を据えて、水天髣髴すいてんほうふつ遠方おちかたを喰い入るばかりに睨んでいたが
登りつむればここは高台の見晴らし広く大空澄み渡る日は遠方おちかた山影さんえいあざやかに、国境くにざかいを限る山脈林の上を走りて見えつ隠れつす、冬の朝、霜寒きころ、しろかねの鎖の末はかすかなる空に消えゆく雪の峰など
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
遠方おちかたに向へり。1505
泥だらけな笹の葉がぴたぴたと洗われて、底が見えなくなり、水草の隠れるにしたごうて、船が浮上うきあがると、堤防の遠方おちかたにすくすくと立って白い煙を吐く此処彼処ここかしこ富家ふか煙突えんとつが低くなって
三尺角 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
せん、師匠をはじめ、前々に、故人がこの狂言をいたした時は、土間は野となり、一二の松は遠方おちかたの森となり、橋がかりは細流せせらぎとなり、見ぶつの男女は、草となり、の葉となり、石となって
白金之絵図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
声々に、可哀あわれに、寂しく、遠方おちかたかすかに、——そして幽冥ゆうめいさかいやみから闇へ捜廻さがしまわると言った、厄年十九の娘の名は、お稲と云ったのを鋭く聞いた——仔細しさいあって忘れられぬ人の名なのであるから。——
陽炎座 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
裏手は一面の蘆原あしはら、処々に水溜たまり、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄切って、赤蜻蛉あかとんぼが一ツき二ツ行き、遠方おちかたに小さく、つりをする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風さつ
葛飾砂子 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
蒼空あおぞらを舞ふ遠方おちかた伽藍がらんの鳩を呼んだ。
印度更紗 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)