かち)” の例文
かちなるも車なるも燭をりたるに、窓のうちに坐したる人さへ火持たぬはあらねば、この美しき夜は地にも星ある如くなり。
今度はかちあるきであるからはかどらず、元の宿まで帰り着いた頃には夜が明けて、かの老人は店さきで桶のたがをはめていた。
かち小姓横目の木村長左衛門、検地衆の大内文右衛門の三人であり、ほかに絵図方、筆取などと、これらの供が十余人いた。
津山の城主松平越後守斉孝なりたかの次女かちかたもとへ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男参河守みかわのかみ斉民なりたみである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
里見※右衞門橋本九兵衞目付朝比奈七之助かち目付岩本大藏勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門代官黒崎又左衞門市田武助町奉行緒方をがた求馬もとめ等出席ありて足輕あしがる共は白洲を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
われ喉を刺されし後、かちにて逃げつゝ野を血に染めて、かの流れの名消ゆる處に着けり 九七—九九
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
「なあに、手間が取れたら、かちでやっつけるんですな、雲助が追っかけたら逃げる分のことで」
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
夜店商人は夕方の三時頃からぼつぼつ検査場横の空地に集まってきた。荷車を引いてくる者、自転車を利用している者、大風呂敷を背負ってかちでくる者、さまざまであった。
桜林 (新字新仮名) / 小山清(著)
この橋高さ一丈余、下は岩石多くそびえて流水深く、かちで渡るもめまうべし。
踏みしめ、飛びこえ、かちわたり
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
往きの片道をかちで歩いて、戻りを駕籠に乗るという世間なみの道中であるらしく、主人の女はもうかなりに疲れたらしい草履の足をひき摺っていた。
(新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
こゝよりアリチアを越す美しき道の程をばかちにてぞゆく。木犀草もくせいさう(レセダ)又はにほひあらせいとう(ヘイランツス)の花など道の傍に野生したり。
組士は下士で、かち、小姓組、徒組、鷹匠組、給主きゅうしゅ組などがこれに属している。あとでわかったのだが、市之丞は丹三郎の母たつ女のおいに当っていた。
加番は各物頭ものがしら五人、徒目付かちめつけ六人、平士ひらざむらひ九人、かち六人、小頭こがしら七人、足軽あしがる二百二十四人をひきゐて入城する。其内に小筒こづゝ六十ちやう弓二十はりがある。又棒突足軽ぼうつきあしがるが三十五人ゐる。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
かちの四人が先になるのはぜひもないことです。
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
脚絆きゃはんをはいて、草履を穿いて、こんにちでいう遠足のこしらえで、三人は早朝から山の手へのぼって、新宿、淀橋、中野と道順をおってかちあるきです。
半七捕物帳:68 二人女房 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
矢崎舎人は、上田の妻子を送ることを命ぜられ、かちの者二名、足軽三名と共に、陸前のくに栗原郡の岩ヶ崎にある、古内家のたてに向かって江戸を立った。
人叫び、人笑ひ、人歌ひ、かちにて走るものあり、大小くさ/″\の車を驅るものあり。その騷しさ言はん方なし。熔巖ラワの流は今しも山麓なる二三の村落を襲へるなり。
それに本多家、遠藤家、平岡家、鵜殿家の出役しゅつやくがあって、先ず三人の人体にんてい、衣類、持物、手創てきず有無ゆうむを取り調べた。創は誰も負っていない。次に永井、久保田両かち目附に当てた口書を取った。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
次に、安芸は熨斗目麻裃のしめあさがみしもを着け、出陣の熨斗を取って祝ったあと、玄関の式台前でまた酒肴を出し、留守の者から供をする小姓、かちの者たちにまで盃を与えた。
眇目の男は無言で向こうを指さすと、武者はうなずいて馬に一鞭ひとむちあてた。つづいて十騎二十騎、あとにはかちの者も七八十人付き添って、あき草の中を泳いで通った。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それは四月のことであるが、その後、伊東の家従である高野兵右衛門、斎藤徳右衛門らが、かち目付の横山勘右衛門を通じて「伊東家再興」の嘆願をつづけていた。
「向うはかちだ、恐らく温海の宿に泊っているだろう、これから馬で飛ばせば、朝までには追い付ける」
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
敵の前線を馬で突破し、一挙に内陣を攪乱かくらんする奇襲隊の役である、したがって家中では槍術がさかんにおこなわれた、それも騎乗とかちとを兼ねる秋田家独特の技法があり
足軽奉公 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)