“薛調”の解説
薛調(せつ ちょう、大和4年(830年) - 咸通13年2月26日(872年4月7日))は晩唐の進士。河中府宝鼎県(現在の山西省運城市万栄県)の人。憲宗朝の御史大夫で河東郡公に封じられた薛苹の孫で婺州刺史の薛膺(せつよう)の子。
大中8年(854年)頃の進士登第と推定され、同期登第者である李瓚(李宗閔の子)と並称され、俊爽ではあるが猜疑心の強かった李瓚が「剣」と呼ばれたのに対して、薛調は姿貌が美しく性格も寛恕であった為に「生菩薩」と呼ばれたといい、その人柄から劉允章に好まれ、また、翰林学士となった際には郭妃がその容姿を賞して懿宗に「駙馬(の容姿)も調には及ばない」と言ったという(駙馬とは公主の婿)。
(出典:Wikipedia)
大中8年(854年)頃の進士登第と推定され、同期登第者である李瓚(李宗閔の子)と並称され、俊爽ではあるが猜疑心の強かった李瓚が「剣」と呼ばれたのに対して、薛調は姿貌が美しく性格も寛恕であった為に「生菩薩」と呼ばれたといい、その人柄から劉允章に好まれ、また、翰林学士となった際には郭妃がその容姿を賞して懿宗に「駙馬(の容姿)も調には及ばない」と言ったという(駙馬とは公主の婿)。
(出典:Wikipedia)