趙の父親の一族で、吏部尚書となった者があって、それが大都から一封の書を送ってきたが、それには江南で一官職を授けるから上京せよと言ってあった。
“吏部尚書(吏部)”の解説
吏部(りぶ)は六部の一。文官の任免・評定・異動などの人事を担当した。
後漢のときに吏曹が設置され、尚書常侍曹と改められた。魏晋南北朝時代より吏部と称され、隋唐五代十国では尚書省のもとで六部の首位に置かれた。
長官として尚書(吏部尚書)が、次官として侍郎(吏部侍郎)が2人置かれた。隋唐期には吏部の下に吏部・司封(しほう)・司勲(しくん)・考功(こうこう)の4司が置かれ、各曹の長にはそれぞれ判官である郎中(ろうじゅう)と員外郎(いんがいろう)が据えられた。
唐の初期には科挙を主管したが、玄宗の開元24年(736年)からは礼部が主管した。唐の中期に至り尚書省の権限が他の機関に侵されるようになると、吏部の役人の任免権も低下していった。司列、天官、文部と改称されたこともあるが、やがて吏部に戻された。
(出典:Wikipedia)
後漢のときに吏曹が設置され、尚書常侍曹と改められた。魏晋南北朝時代より吏部と称され、隋唐五代十国では尚書省のもとで六部の首位に置かれた。
長官として尚書(吏部尚書)が、次官として侍郎(吏部侍郎)が2人置かれた。隋唐期には吏部の下に吏部・司封(しほう)・司勲(しくん)・考功(こうこう)の4司が置かれ、各曹の長にはそれぞれ判官である郎中(ろうじゅう)と員外郎(いんがいろう)が据えられた。
唐の初期には科挙を主管したが、玄宗の開元24年(736年)からは礼部が主管した。唐の中期に至り尚書省の権限が他の機関に侵されるようになると、吏部の役人の任免権も低下していった。司列、天官、文部と改称されたこともあるが、やがて吏部に戻された。
(出典:Wikipedia)
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