食料品はもとよりすべての物資は東倶知安から馬の背で運んで来ねばならぬ交通不便のところでした。それが明治三十三年ごろのことです。
倶知安の辺まで来るとまた稲田がある。どこまで行っても稲田は追っかけて来るのである。それでいて楽には米が食えないのが今の日本の国である。
愚図愚図していると今までのような煮え切らない事はして置かない、この村の巡査でまにあわなければ倶知安からでも頼んで処分するからそう思えともいった。
夫婦が行き着いたのは国道を十町も倶知安の方に来た左手の岡の上にある村の共同墓地だった。