“こうのひろなか”の漢字の書き方と例文
語句割合
河野広中100.0%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
加波山事件の直接の前件となった福島事件の領袖河野広中こうのひろなかが晩年(彼の伝記のなかで)つぎのようにいっているのは面白い。
加波山 (新字新仮名) / 服部之総(著)
一八八〇年(明治十三年)四月十三日、有名な政治家河野広中こうのひろなかと四国の人片岡健吉かたおかけんきちとは、『国会開設允可上願書』を書いて、天皇にさしだすことになった。
民間から攘夷に参加した紀州の浜口梧陵はまぐちごりょう、尾張の林金兵衛はやしきんべえあるいは天狗党にはせ参じようとした河野広中こうのひろなか、その他文久年間の過激攘夷決行派のなかに大ぜいおった。
黒船来航 (新字新仮名) / 服部之総(著)
当時の有力者板垣退助いたがきたいすけ後藤象二郎ごとうしょうじろう江藤新平えとうしんぺい副島種臣そえじまたねおみ由利公正ゆりこうせいらは、民選議院設立の建白書を、左院に提出し、明治十三年四月には、東北の名士河野広中こうのひろなか、土佐の名士片岡健吉かたおかけんきちの二人は