烏帽子ゑぼし)” の例文
其耳があてに成らないサ。君の父上おとつさんは西乃入にしのいりの牧場に居るんだらう。あの烏帽子ゑぼしだけ谷間たにあひに居るんだらう。それ、見給へ。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
程なく多くの足音聞ゆる中に、沓音くつおと高くひびきて、烏帽子ゑぼし七七直衣なほしめしたる貴人、堂に上り給へば、従者みとも武士もののべ四五人ばかり右左みぎひだりに座をまうく。
骨組のたくましい大男で、頭に烏帽子ゑぼしを戴き、身に直垂ひたゝれを著、奴袴ぬばかま穿いて、太刀たちつてゐる。能呂は隊の行進を停めて、其男を呼び寄せさせた。
津下四郎左衛門 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
が、余程以前から、同じやうな色のめた水干すゐかんに、同じやうな萎々なえなえした烏帽子ゑぼしをかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確である。
芋粥 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
(これを聽きて春彦は控へる。楓は起つて蒲簾をまけば、伊豆の夜叉王、五十餘歳、烏帽子ゑぼし、筒袖、小袴こばかまにて、のみつちとを持ち、木彫の假面を打つてゐる。膝のあたりには木の屑など取散したり。)
修禅寺物語 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
腰簑に風折かざをれ烏帽子ゑぼし綱さばく鵜匠は夏のものにぞありける
夢殿 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
折釘をれくぎ烏帽子ゑぼし掛けたり春の宿
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
烏帽子ゑぼしながら水くゞるとは
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
まな板烏帽子ゑぼしゆがめつつ
たしかに其は父の声で——皺枯しやがれた中にも威厳のある父の声で、あの深い烏帽子ゑぼしだけ谷間たにあひから、遠くの飯山に居る丑松を呼ぶやうに聞えた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
桜の釣板つりいた張子はりこの鐘、それからアセチレン瓦斯ガスの神経質な光。お前は金紙きんがみ烏帽子ゑぼしをかぶつて、緋鹿子ひがのこの振袖をひきずりながら、恐るべく皮肉な白拍子しらびやうし花子の役を勤めてゐる。
動物園 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
素襖すあをかきのへたながら、大刀たちの切字や手爾遠波てにをはを、正して点をかけ烏帽子ゑぼし、悪くそしらば片つはし、棒を背負しよつた挙句の果、此世の名残執筆の荒事、筆のそつ首引つこ抜き、すゞりの海へはふり込むと
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
丑松は唯出掛けさへすればよかつた。此処から烏帽子ゑぼしだけの麓まで二十町あまり。其間、田沢の峠なぞを越して、寂しい山道を辿らなければならない。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
泰平たいへいの時代にふさはしい、優美なきらめき烏帽子ゑぼしの下には、しもぶくれの顔がこちらを見てゐる。そのふつくりと肥つた頬に、鮮かな赤みがさしてゐるのは、何も臙脂えんじをぼかしたのではない。
好色 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
平中はややあわてたやうに、烏帽子ゑぼしの頭を後へ向けた。後には何時いつわらべが一人、ぢつと伏し眼になりながら、一通のふみをさし出してゐる。何でもこれは一心に、笑ふのをこらへてゐたものらしい。
好色 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)