小日向こびなた)” の例文
おやじの葬式そうしきの時に小日向こびなた養源寺ようげんじ座敷ざしきにかかってた懸物はこの顔によく似ている。坊主ぼうずに聞いてみたら韋駄天いだてんと云う怪物だそうだ。
坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
幸子はそれまで小日向こびなたの方にいた。朝子は一年半程前に夫を失い、河田町の生家に暮していた。幸子と二人で家を持つと決ったとき、大平は
一本の花 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
美しく晴れた晝下がり、初秋の陽はまだ存分に暑いのを、置手拭で月代さかやきをかこつて、二人は小日向こびなたの瀬尾家に着きました。
何処どこと云って尋ねて参る処も有りませんが、小日向こびなた水道町に今井玄秀いまいげんしゅうと申す医者が有ります、其の娘と手習朋輩で前々まえ/\懇意に致した事が有りますが
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
小日向こびなたから音羽おとわへ降りる鼠坂ねずみざかと云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名だそうだ。
鼠坂 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「家は以前の所です。小日向こびなた水道町すいどうちょう……覚えているでしょう。一日でも二日でも能御よござんす。暇を見てちょっと来て下さい。失礼だが、これはその時の車代に。」
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
かかるところへというあんばいに、小日向こびなたの高台から一本道を大股にここへ急いで来る燕合羽つばめがっぱ
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「知ってのとおり、おれは堀普請の目付めつけ役をしておる、坂本も相い役だったが、——おれのところへやって来おって、小日向こびなたの普請小屋に、不取締りのことがあるから、注意するようにと申しおった」
御承知の通り、小石川に小日向こびなたという所があります。
半七捕物帳:55 かむろ蛇 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
小日向こびなたに屋敷を持つて居られる赤井左門殿、二千八百石をんで、旗本中でも屈指の家柄だ。知つて居るであらうな」
「一度見失った姿をチラと見うけましたのが、小日向こびなた丹下坂たんげざかなので——あの広い陰鬱いんうつ切支丹屋敷きりしたんやしきの中へと、すばやく影をくらましたには、拙者も意外な感にうたれました」
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じゃついでだから帰りに小日向こびなたへ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃無精ぶしょうになったようですね、この間もひとに代理をさせたじゃありませんか
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
小石川区小日向こびなた台町だいまち何丁目何番地に新築落成して横浜市より引き移りし株式業深淵某氏宅にては、二月十七日の晩に新宅祝として、友人を招き、宴会を催し、深更に及びし
鼠坂 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
しゅうとや小姑の多勢いたうちの妻になりきれなかったのはこのせいである。屈辱とも不義とも思わず小日向こびなた水道町すいどうちょうの男の家へ誘われるがままに二度まで出掛て行ったのもまたこの性情によるのである。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
小日向こびなたの方へ催促に行こうと思うのだが、又出てくのはおっくうだから、牛込うしごめの方へ行って由兵衞よしべえさんのとこへも顔を出したいし、それから小日向のお屋敷へ行ったり四ツ谷へも廻ったりするから
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
小日向こびなたに屋敷を持っておられる赤井左門殿、二千八百石をんで、旗本中でも屈指の家柄だ。知っているであろうな」
だから清の墓は小日向こびなたの養源寺にある。
坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
両国から小日向こびなたまで駕籠かご、そこからわざと歩いて、唐花屋の入口に着いたのはかれこれ酉刻むつ(六時)近い刻限でした。
明治三十五年の夏、初めて上京した石川啄木いしかわたくぼくが、小日向こびなたの素人下宿で、ワグナーの「白鳥の騎士ローエングリン」の英訳本を耽読たんどくしていたことを私は記憶している。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
兩國から小日向こびなたまで駕籠、そこからわざと歩いて、唐花屋の入口に着いたのは彼これ酉刻むつ近い刻限でした。
小日向こびなたで殺した太助の死骸を、わざ/\上流の大瀧へ持つて行つたのは細工過ぎたが、最初は大八車か何かで持つて行つたこととばかり思つたよ。女にあの死骸は運べまい。
平次は荒物屋の女房の好意で日蔭にも澁茶しぶちやにも有り付きましたが、氣のきかない野良犬のやうに、小日向こびなたの草原に潜り込んだガラツ八は、眞上から初夏の陽に照りつけられて
小日向こびなたに屋敷を持つてゐる、千五百石取の大旗本大坪石見いはみ、非役で内福で、此上もなく平和に暮してゐるのが、朝起きて見ると、娘の濱路はまぢがまるつきり變つて居たといふのです。
小日向こびなたで殺した太助の死骸を、わざわざ上流の大滝へ持って行ったのは細工すぎたが、さいしょは大八車か何かで持って行ったこととばかり思ったよ。女にあの死骸は運べまい。
小日向こびなたに屋敷を持っている、千五百石取の大旗本大坪石見おおつぼいわみ、非役で内福で、この上もなく平和に暮しているのが、朝起きてみると、娘の浜路はまじがまるっきり変っていたというのです。
「——十三日の晩、小日向こびなた竜興寺りゅうこうじ裏門まで行ってみろ——と書いてあります」
両袖を合せてポンと叩くと、そのまま弥造やぞうこしらえて、小日向こびなたへ早足になります。
「小夜菊の死んだのも知らずに、舊藩の友人を訪ね、を打つて酒を呑んで、たうとう泊つてしまつたよ、先の名は、小日向こびなたの荻野淡路守あはぢのかみ御家來、磯中三五郎殿、行つて訊ねて見るが宜い」
「気の毒なのは神津の殿様と、お江野とかいうお妾だ。邸の中は言うに及ばず、小日向こびなた中血眼になって捜し廻ったが、どこへ行ったか見当もつかねえ。——何とかしてやって下さいよ。親分」
「氣の毒なのは神津の殿樣と、お江野とかいふお妾だ。邸の中は言ふに及ばず、小日向こびなた中血眼になつて搜し廻つたが、何處へ行つたか見當もつかねえ。——何とかしてやつて下さいよ、親分」
娘濱路を産んで間もなくくなり、嬰兒えいじは草加の百姓午吉夫妻に預けられて、三つになるまで育ち、それから小日向こびなたの大坪家へ歸されたのですが、お關に言はせると、午吉夫婦は自分の娘お關が
嬰児えいじは草加の百姓午吉夫婦に預けられて、三つになるまで育ち、それから小日向こびなたの大坪家へ帰されたのですが、お関に言わせると、午吉夫婦は自分の娘お関が、里子の浜路と、よく似ているのを幸い
二人が小日向こびなたへ驅け付けたのは、その日が暮れかけた頃。
小日向こびなたの瀬尾淡路守樣、お前も知つて居るだらう。
小日向こびなた第一の名水だよ」