大店おほだな)” の例文
大店おほだなに野幇間風情が怒鳴り込むといふのが、土臺間違つた話で、これは何處へ訴出たところで、取りあげてくれる道理もありません。
七荷の荷物までは普通の嫁入り荷物であつたが、貴族とか大店おほだなのお嬢さんのよめいり荷物は、十三荷があたり前の事になつてゐた。
よめいり荷物 (新字旧仮名) / 片山広子(著)
たづねければ口惡善くちさがなき下女の習慣ならひあれこそ近在の大盡だいじん娘御むすめごなるが江戸のさる大店おほだな嫁入よめいりなされしが聟樣むこさま
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
それは宿を出て、娘と出あふ通り迄行かないうちに南へ曲る一筋の路の、小半町とも無いところにある、日華洋行と云ふ金看板を掲げた、昔の大店おほだなを今風に改造したやうな、大阪特有の店構だつた。
大阪の宿 (旧字旧仮名) / 水上滝太郎(著)
祭物見まつりものみ大店おほだな
春鳥集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
日本橋の大店おほだなの若旦那との間に、——私が十六の時生んだ娘でした。お店に置くのが面倒で、月々仕送つて頂いて此處に置きました。
女隱居は、六十前後、かつては日本橋あたりの大店おほだなの主人の圍ひ者だつたさうで、下女一人を使つて、つゝましく暮して居りました。
金之丞さんも身内には相違ありませんが、縁が遠くなりますし、それに、あの通り弱いかたで、大店おほだなを切り廻す方ぢや御座いません。
屹となつたのは、二十一二の、典型的な大店おほだなの若旦那です。言ふまでもなく玉屋の一人息子の金五郎、今までお糸を慰めて居たのでせう。
ガラツ八は、目黒の栗飯屋で、大店おほだなの嫁と言つた若い美しい女から——平次親分さんへ渡すやうにと結び文を頼まれたことを話しました。
中へ入つて見ると、何んとなく顛倒して、大店おほだならしい日頃の節度もなく、奉公人達は唯うろうろと平次の一行を迎へるだけです。
大店おほだなの主人らしい寛達くわんたつさはありますが、弟の悧巧さを自慢にする人の良さ以外に、この莊太郎には大した取柄のないことがよく判ります。
が、大店おほだなの主人らしい鷹揚さは失はず、どんな事を言ひ出されても驚くまいとするやうに、膝に置いた手は、ひしと單衣を掴んで居ります。
日本橋の大店おほだなへ、請人うけにんの無いのを承知で住み込んだが、主人にしつこく口説くどき廻されて、思案に餘つて死ぬ氣になつた——と斯ういふんです。
大店おほだなの主人向でないのと、亡くなつた内儀——萬吉の實母で、喜八の叔母に當るのが、遠慮をして夫萬兵衞の血縁から金次郎を選び出させ
長ものを着て居るせゐか、植木屋といふ八五郎の觸れ込みがなかつたら、平次も大店おほだなの番頭か何かと間違へたことでせう。
「番頭さん、御主人は何だつてこんな場所へ來なすつたらう。裏二階の下で、納屋なやの蔭などへ、大店おほだなの主人が入るのは可怪しいぢやありませんか」
主人徳兵衞の話はかなり長いものでしたが、大店おほだなの主人らしく、伜の放埒と不心得を苦々しがりながらも、涙を含んだ調子は爭ふべくもありません。
二十五六、大店おほだなの手代風ですが、餘程面くらつたものと見えて、履物はきもの片跛かたちんば、着物の前もろくに合つて居りません。
お三はこれくらゐにして、次に呼んで來たのは鳴海なるみ屋の後家、今はこの大店おほだなの女主人と言つても宜いお富でした。
縞物しまものを短かく着て、何處か大店おほだなの小僧とも見える美少年米吉は、平次の問ふまゝに、わだかまりもなく答へます。
金のありさうな大店おほだなの二男坊を養子にと心掛けてゐるうち、このお絹は遠い徒弟いとこで、小橋屋へ足繁く出入りする、伊三郎といふ若い男と出來てしまつたのです。
菱屋が沒落してから三年、江戸を外にして放浪して歩いて、艱難と貧苦とが、この女から大店おほだなの娘らしい上品さを奪つて、媚態びたいと下品さだけを殘したのでせう。
廻して居る樣子だ。大店おほだなの支配人だから、大金を持つて居たところで不思議はないやうなものだが、それを
いや大店おほだなしつけはさすがに恐れ入つたものだ、——ところで、大層見事な筆蹟だが、誰が書きなすつたのだえ
背負つて、大店おほだなのお勝手をお得意先に回つて歩く、女小間物屋のお辰さんは、叔父さんと、そりや仲が良かつたんですもの、世間では何んとか言つてゐましたよ
銭形平次捕物控:311 鬼女 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
主人萬兵衞の顏には、一瞬悔恨くわいこんと自責ともつかぬ、苦澁な雲がサツと擴がりました。が、さすがに大店おほだなの主人らしい自尊心を取戻して、靜かに語り續けるのです。
掛けたわけでもありませんから、判然はつきりしたことは申上げられませんが、着物の好み、髮形などから見ると、下町の大店おほだなのお孃さんといふところぢや御座いませんか
預けたのは、日本橋のさる大店おほだなの妾と申し上げた筈だが、まことは、大變な違ひで、それは先年鈴ヶ森で處刑になつた、大泥棒風雲源左衞門の忘れ形見であつたのぢや
まだ四十二三、大店おほだなの支配人にしては少し若いくらゐですが、その代り同業中の切れ者で、身體の弱い主人の治兵衞には、まことに打つてつけの女房役だつたのです。
「それが嫌なら、増屋へ乘込んで、手前の素姓を皆んなバラしてやるまでよ。江戸で指折の大店おほだなが、巾着切の娘を嫁にするかしないか。こいつは面白いぜ、なア彦兄イ」
「立派な大店おほだなの内儀さんですよ。押しも押されもしませんや。三人の繼娘さへなきや、あんな仕合せな人は江戸中にもないでせう。讃州志度であはびを捕つてゐた人ですもの」
「そんな怪しげなのぢやありませんよ。間違ひもなく大店おほだなの若隱居が、道樂に尺八の師匠をして居るんで、竹名は竹齋といふが、本名は山城屋瀧三郎といふんださうですよ」
銭形平次捕物控:124 唖娘 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
二十はたち前後の大店おほだなの若女房と言つた女が、少し顏を赧らめて、尋常に小腰を屈めるのでした。
少し因業らしくはあるが、顏の道具なども立派で、先づは大店おほだなの主人としての貫祿も申分なく、身扮みなり——と言つても寢卷のまゝですが、それが思ひの外に贅を極めて居ります。
いそ/\と出迎へた宗左衞門は、六十前後の大店おほだなの主人らしい、愛嬌の良い老人でした。
少し言ひ足らぬ顏ですが、さすがに大店おほだなの主人らしく、言葉少なに引揚げて行きます。
年の頃、二十七八、分別者らしいうちに愛嬌があつて、大店おほだなの主人の貫祿は充分です。
父親を大店おほだなの若旦那と思はせて置くのが、幇間ほうかんの左孝には、せめてもの慈悲なのです。
少し華奢きやしやな撫で肩、四十男の疲れは見えますが、大店おほだなを背負つて立つだけに、何んとなく貫祿があつて、あまり丈夫さうでない身體から、精力的なものが發散すると言つた人柄です。
徳三郎はあわてゝその瓶を抱込かゝへこむと、勝造を拂ひ退けて屹となりました。理の當然でもあり、大店おほだなの支配人の權力で斯う言はれると、叔父でも親類でも、口のきゝやうがありません。
大店おほだなの御新造といつた風でした。頭巾をかぶつて居るので、髮形はわかりませんが」
大店おほだなの聟養子に納まるところですが、殘念乍ざんねんながらそんなうまいわけには行きません。
一番先に連れて來たのは、主人の次郎右衞門——六十前後の大店おほだなの主人らしい貫祿ですが、思はぬ打撃に少し顛倒してゐ乍ら、錢形平次が來てくれたので、何にかホツとした樣子です。
二階へ押し上がつて大盡風だいじんかぜを吹かせる安旗本の次男三男、大店おほだなの息子手合まで、お由良の愛嬌におぼれる者も少くなかつた中に、ガラツ八の八五郎も散々お賽錢さいせんを入れ揚げた講中の一人で
大店おほだなの番頭さんらしい人が、兩國の橋の下に居る文吉と名差しで訪ねて來て——申し忘れましたが、私の元の名は文吉でございました——その番頭さんは、私を人の居ないところへ連れて行つて
「よく存じませんが、大店おほだな支配人ばんとうのことですから、一人や二人かこひ者があつたところで、文句を言ふ方が間違つて居ります。それにあの年まで女房も持たず、暖簾のれんを分けて貰ふあてもないのですから」