停止ちょうじ)” の例文
上訴じょうそ上訴。——われらのうち数名のものが、まず政庁に赴いて、念仏停止ちょうじ願文がんもんをさし出し、朝廷へ訴え奉るが何よりの策じゃ」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
世間一般が鳴物なりもの停止ちょうじしているのに、不謹慎にも聚楽の城中ではさま/″\な宴会を催し、撿挍けんぎょうを召して平家を語らせたり、相撲を興行したりした。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
四条院の天福延応年間などたびたび一向専修の宗旨を停止ちょうじの勅命を下されたけれども、厳制すたれやすく興行止まりがたく、念仏の声は愈々いよいよ四海に溢れた。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
天和てんなの制法にありて養子は同姓より致すとあるも筋目をただすべき制法につきなにがし殿寄どのよりには以後養子を致すとも娘取り致すとも縁金と申すことを停止ちょうじせしめ
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
嘉永六年七月には徳川家慶いえよし薨去こうきょしたので、七月二十二日から五十日間の鳴物なりもの停止ちょうじを命ぜられた。
「おのれ、そこの御高札を見ぬか、いや、辻々の掲示はもちろん、あれほど、厳しゅうかみより布令ふれてある念仏停止ちょうじのことを知らぬのか」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
とまで云って、右の光明房の手紙に就て法然は、「一念義停止ちょうじの起請文」をまで定めて世に示した。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
高価のものの売買も当丑年うしどし限り停止ちょうじ触出し置きたれば、残りたる物は年内最早三日に相成り、形を替えるか、崩すとも仕舞切しまいきりにいたすとも、きた寅年とらどし元朝がんちょうよりは急度きっと停止申渡す。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
方々からの見廻飛脚がにぎわうのをはゞかり多しと云って断り、又高野山へ見廻之儀一切停止ちょうじなさるゝ旨、駒井中務少輔なかつかさしょうゆう、益田少将方から廻文に及び、たゞ山の口々に歩士二人宛すえ置くように申し触れた。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
宮中には服喪ふくもノ令が出て、一切の慎みが守られ、市中にも数日の鳴物停止ちょうじが令せられた。——ご病中だった皇后の禧子よしこがおなくなりになったからである。
最初からその雲行が険難であったが、ついに元久元年の冬、山門大講堂の庭に三塔会合して専修念仏を停止ちょうじすべしということを議決して、座主ざすの大僧正真性に訴え申した。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
(それは捨ておけぬ)ふたたび持ち前の嫉視を向け、弾圧、迫害、誹謗ひぼう、あらゆる反動をあおって、とうとう、朝廷へ向って「念仏停止ちょうじ」の訴えを起した。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「今日から七日の間、幕府の雑訴ざっそ(政務)を停止ちょうじしよう。すべて、つつしんでに服し、深く哀悼あいとうの意を表せ」
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
後宇多法皇崩御ほうぎょが聞えたのは、前月の月の末だった。——当然、鎌倉の柳営でも、数日間は、音曲おんぎょく停止ちょうじされ、それからしばらくの間も、諒闇りょうあんが令されていたからである。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
やがて呉使が引き揚げると、曹操はを発して、百日のあいだ洛陽の音楽を停止ちょうじさせた。そして沈香の木をもって関羽のむくろきざませ、首とともにこれを洛陽南門外の一丘に葬らせた。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鳴物停止ちょうじというお布令ふれを其方どもは何と心得おるのか。唄ならば大声でうたってもかまわんという所存か。しかも今日の如き天下の非常の場合に、客を登楼させて遊ばすなどとは、言語道断。
旗岡巡査 (新字新仮名) / 吉川英治(著)