自分ながら怖い。だから父の千与兵衛は、わたくしの性質を見ぬいて、まだ私がなやの与四郎さんと呼ばれていた少年の頃から、武野紹鴎様のところへ、茶など稽古に通わせました。
また、茶道は、もう数年前に亡くなっている人だが、この町の武野紹鴎について、一通りは学んでもい、その方では、この町の大きな魚問屋でまた、十人衆の一人でもある千宗易と、同門下であった。
“武野紹鴎”の解説
武野 紹鷗(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。正しくは紹鷗だが、一部の日本語環境では表示できないため、本項では「武野紹鴎」と表記する。
幼名は松菊丸。通称は新五郎。名乗は仲材。
子に同じく茶人の武野宗瓦がいる。
(出典:Wikipedia)
幼名は松菊丸。通称は新五郎。名乗は仲材。
子に同じく茶人の武野宗瓦がいる。
(出典:Wikipedia)