とも)” の例文
(細川幽斎九州道の記に備後の津公儀御座所に参上して十八日朝ともまでこし侍るとあり。すなはち此尾の道に太閣の留宿するをいふなるべし。)
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
けれども秘密の早船を仕立て、大坂、備後びんごとも周防すおうかみせきの三ヶ所に備へを設け、京坂の風雲は三日の後に如水の耳にとゞく仕組み。用意はできた。
二流の人 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
途中も陸海両軍は、緊密な連絡をたもちながら、東上をすすめて行くときまり、五月十日、ともを一せいにった。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
は今備後びんごともより松山へ渡る汽船の甲板の上で意気込んで居る。何の意気込だ。夏目先生の『坊つちやん』の遺蹟を探らうとしての意気込みだ。
坊つちやん「遺蹟めぐり」 (新字旧仮名) / 岡本一平(著)
いつのころより五三ともの津の袖といふ五四妓女あそびものにふかくなじみて、つひ五五あがなひ出し、ちかき里に別荘べつやをしつらひ、かしこに日をかさねて家にかへらず。
備後ともの近方、箱の岬と申所にて、紀州の船直横より乗かけられ、吾船は沈没致し、又是より長崎へ帰り申候。
この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになつた時に腕にともの形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。
この小さな天皇には、ご誕生たんじょうのときに、ちょうど、ともといってゆみるときに左のひじにつける革具かわぐのとおりの形をしたお盛肉もりにくが、おうでに盛りあがっておりました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
ともへ打電したこと無論である。それから郷里へ帰って翌日引き返した。その翌日出社、辞令を受けて、漸く月五十五円の会社員になった。差当り毎日伝票を書かさせる。
負けない男 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
備後びんごともにて」という前書がある。旅中の気楽さは元日といえども悠々ゆうゆうと朝寝をしている。もう御雑煮が出来ましたから御起き下さい、といわれてようやく起出すところである。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
吾妹子わぎもこともうらむろ常世とこよにあれどひとき 〔巻三・四四六〕 大伴旅人
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
ちょうど備後のともに滞船した時、自分で陸へ上って薬屋で幾那塩を買った、この港は例の保命酒の本場であるから、彼方此方に土蔵造りの家屋も見えて、かなり富んでいるように思われた。
鳴雪自叙伝 (新字新仮名) / 内藤鳴雪(著)
ともで借りませうか
野口雨情民謡叢書 第一篇 (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
「瀬戸内の、ともノ津や、むろノ港などの女は、これよりは、もっと、品が落ちる。……やはり、江口の君たちには、どこかまだ優雅みやびなところがある——」
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わたくしは棠軒が戊辰の年に従軍して、十月二日に備後国ともを発したことを記した。日録には歴史上多少の興味がある故、稍詳に此に写し出さうとおもふ。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
には矢が千本も入るゆぎを負われ、胸にも五百本入りの靱をつけ、また威勢のよい音を立てるともをお帶びになり、弓を振り立てて力強く大庭をお踏みつけになり
ともに着くと去年に弥勝いやまさる歓迎だった。道子さんのお婿さんということが知れ渡っていて東京ほどの遠慮がなかった。着いた晩、奥田君のお父さんが稍〻改まって祖先の話をした。
負けない男 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
ますらをのともおとすなりもののふの大臣おほまへつぎみたてつらしも 〔巻一・七六〕 元明天皇
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
そのとものお肉のことをうけたまわったものたちは、天皇がお母上のおなかのうちから、すでに天下をお治めになっていたということは、これでもわかると言って、みんなおそれ入りました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
いつとはなしに、正太郎は、ともそでという遊女とふかくなじんで、ついにはこれを身請けし、近くの里に妾宅をかまえて住まわせ、そこに幾日もいりびたっては、家に帰らないようになった。
彼と阿蘇惟直あそこれなおとは、鎌倉の令で河内の千早攻めに参戦を命ぜられていた。で、備前のともまでは舟行していたが、急に引っ返してしまったのである。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
按ずるに当時津軽承昭つぐあきを援ふ令は福山、宇和島、吉田、大野の四藩に下つた。福山の兵は此日ともの港にやどつた。「九月廿一日、晴、朝五時揃。(中略。)夕七時前鞆湊著。」
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
「本当だよ。家を持つのもその支度さ。道子さんがともから毎日訓令を発している」
負けない男 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
味方の一将、石橋和義かずよしを、途中の備前で下ろし、備後ともに半日ほどいて、またすぐ西下をつづけた。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それから周防国すおうのくに宮市に二日いて、室積むろづみを経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国あきのくに宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国びんごのくにに入り、尾の道、ともに十七日、福山に二日いた。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
いくら拷問ごうもんしても、ひと口も、主の不為は吐かなかったことやら、またやや後日、備後のともでかこまれた菊池の落人おちゅうど宮崎太郎兵衛が、持っていた密書をまもるため
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
備後びんごともにありと知った足利義昭あしかがよしあきへも使いを派し——この古物の野心家をうごかして——いざの場合、毛利をしてふたたび秀吉の背後をおびやかさしめんなど、几案きあん作戦は
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
直義の手にひきとられていた養子の左兵衛佐直冬さひょうえのすけただふゆ(幼名、不知哉いさや丸)は、この一月ごろ、西国探題の名目をうけて、こつねんと都を去り、備後のともへんにとどまって、しきりに
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
流寓落魄りゅうぐうらくはくの果てに、備後びんごともで政職が死んだとき、その子氏職うじもとが、落ちぶれ果てているのを求め、信長に詫び、秀吉にすがり、旧主の子の助命に骨を折って、黒田家の客分として迎え
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
再び使いを派して、備後びんごともにある足利義昭よしあきに密書を送り、毛利をして西国より動かしめんと努め、一方、浜松の徳川家康へも使いを立て、極力一方の援けを求めつつあったらしい。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
尊氏たちは、まもなく浄土寺を出、その夜のうちに船でともへ渡った。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
されば、この度、播州赤穂から帰るさには、ともの津では、港屋の花漆はなうるし浪華なにわでは曾根崎、伏見では笹屋の浮橋と、遊びあるき、い明かして、一日も遅く京へ着きたいものと願うているのじゃ。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかし漂泊ひょうはくして行く先々の人情はすでに政職の頼りに考えていた知己とは違っていた。そのうちに連れていた僅かな召使もみな離れ、ともに病んで、間もなくそこで歿したということが知れた。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そのうえに今朝、ともからの早馬もありました。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)