秀忠ひでただ)” の例文
家康は将軍職を退き、この春の三月には二代将軍を継承した秀忠ひでただが、御礼おんれいのため上洛するのであろうと、洛内らくないは景気立っている。
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それは当主光長みつながの母堂(忠直ただなおの奥方にして、二代将軍秀忠ひでただ愛女あいじょ)の寝室近くであった。その為に罪最も重く磔刑はりつけに処せられたのであった。
怪異黒姫おろし (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
秀忠ひでただと祖父家康いえやすの素志を継いで、一つにはまだ徳川とくがわの天下が織田おだ豊臣とよとみのように栄枯盛衰の例にもれず、一時的で
後に将軍職をけ継いだ三男長丸おさまる秀忠ひでただ)はちょうどこの年に生まれ、四男福松丸ふくまつまる忠吉ただよし)はその翌年に生まれた。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
将軍家秀忠ひでただが砂村先にお遊山ゆさんへおもむいたみぎり、つらあてにそのお駕籠かご先で割腹自刃を遂げたのでありました。
(家康は四月十七日以来、二条にじょうの城にとどまっていた。それは将軍秀忠ひでただの江戸から上洛じょうらくするのを待ったのち、大阪の城をせめるためだった。)この使に立ったのは長晟の家来けらい関宗兵衛せきそうべえ
古千屋 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そしていちばん末の姫は、二度嫁して、二度良人にわかれ、三度目に徳川二代将軍秀忠ひでただに嫁いで、家光を生み、東福門院とうふくもんいんを生む大幸にめぐり会った。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
徳川家康いえやすは三人を紫野むらさきの大徳寺だいとくじまらせておいて、翌年の春秀忠ひでただといっしょに上洛じょうらくした時に目見めみえをさせた。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
あたかもこの日はお二代台徳院殿様、すなわち前将軍秀忠ひでただ公のご忌日に当たるところから、例年のごとく将軍家の増上寺お成りがあるため、お城内も沿道もたいへんな騒ぎでした。
使いをもって、遠路、老体をわずらわしたが、実を申せば、江戸にある嫡子ちゃくし秀忠ひでただに、剣の良師を求めておる。早速であるが、徳川家に随身ずいしんの意志はないか。それが問いたいのじゃ。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
というのは元和げんな九年のこの二月二日に、ご当代家光いえみつ公がご父君台徳院秀忠ひでただ公から、ご三代の将軍職をお譲りうけになられましたので、それをお祝い記念する意味から、この日をお将軍日と唱えまして