忿懣ふんまん)” の例文
この無邪気な忿懣ふんまんが、やがて成長して危険な年齢を迎へた喬彦の心のなかで、或る卑しい欲望に変形して行つたのは言ふまでもない。
垂水 (新字旧仮名) / 神西清(著)
義雄は多少忿懣ふんまんの氣味で、自分が樺太の通信を東京の或新聞に引き受けた時でも、その三倍もしくは四倍分を受け取つたことを語る。
泡鳴五部作:04 断橋 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
さらに三斎について注目すべきは、彼が徳川の傘下さんかりながら、幕府の不遜ふそんな対朝廷策に、大きな忿懣ふんまんを抱いていたことである。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分自身に対する堪え難い忿懣ふんまんを心にいだきながら、愛想づかしのつばをぺっと吐いて、そのまま逃げ出してしまったではないか。
私は目前に、むだな料理の山を眺めて、身を切られる程つらかった。この家の人、全部に忿懣ふんまんを感じた。無神経だと思った。
佐渡 (新字新仮名) / 太宰治(著)
伊志田氏は、ゆうべそのことが小林少年の口から漏れて以来、綾子がまるで犯人のようにあつかわれているのが、忿懣ふんまんに耐えないのであった。
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
遠山勘解由はまだ忿懣ふんまんがおさまらないとみえ、肩肱かたひじを張ってむっとふくれていた。甲斐は兵部といっしょに立ち、いっしょに廊下を歩いていった。
手紙には相変らず嘲弄的な事が書並かきつらねてあった。石子刑事はふゝんと嘲笑い返しながら読んでいたが、次の一句に突当ると、彼の忿懣ふんまんはその極に達した。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
多くの忿懣ふんまんを懐いてゐるが、試みに毎朝のラッシュ・アワー、これから一日の勤めに出掛けようとする人々が押しあひへしあひしてゐる満員電車に乗つてみれば
総理大臣が貰つた手紙の話 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
純粋! 何ていいかげんのにげことばだろう! 伸子は越智に対して、いつも湧く忿懣ふんまんを新たに感じた。
二つの庭 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
指定になった月までさかのぼって支給したいと申し出でたが、先刻から、止むを得ず、千五百六十円は承認したものの、忿懣ふんまんやるかたなく思っていた民政党の参事会員は
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
運命に対する清らかな忿懣ふんまんを感じ、女性のいのちの底からいじらしさをゆり動かされるのを感じた。
明暗 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
それが奥畑は何となくしゃくに触って、けてならないので、子供じみた忿懣ふんまんらすのだと思って、軽く聞き流していたのであったが、水害以来急に云い方があくどくなり
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
と、一気に云うと、綾子夫人はいかに積もる忿懣ふんまんの情に堪えないと云うように、椅子の背に身体をもたせて、絹よりもなめらかな麻のハンカチーフを両手の中でもみしだいた。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
五十男の顏から、不敵な忿懣ふんまんが消えると、それが次第に恐怖になつて行く樣子です。
ナポレオンはデクレスが帰ると、忿懣ふんまんの色を表してひとり自分の寝室へ戻って来た。だが彼はこの大遠征の計画の裏に、絶えず自分のルイザに対する弱い歓心が潜んでいたのを考えた。
ナポレオンと田虫 (新字新仮名) / 横光利一(著)
司馬遷は最後に忿懣ふんまんの持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
その忿懣ふんまんはほんとは自分に対して向けられるべきなのに、当面の僕にぶっつかって来るというのが真相らしい。しかしそれで黙って引き下っていては僕の立つ瀬はないじゃありませんか。
ボロ家の春秋 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
おどろいたのは当然としても、もう少しそこになんとか気のきいた応急策のほどこしようがあったはずだと、刑事連をはじめ公衆は切歯扼腕せっしやくわんして口惜しがったが、やがでその忿懣ふんまんは非難に変わって
女肉を料理する男 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
そこは貴族の御曹司おんぞうしであり、貴族趣味から遁がれられないところの、冬次郎にとっては前代未聞の恥辱、いうにいわれぬ忿懣ふんまんとなって、貝十郎に対し公憤以外、私怨を感ぜざるを得なかった。
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
隠居は、こう忿懣ふんまんの一端を述べた。麻布の二ばん目の孫嫁のことだった。
万年青 (新字新仮名) / 矢田津世子(著)
忿懣ふんまんやる方ないこの胸の思いをらしてやって! と、ひそかにその機会のくるのをうかがっていたのであったが、妻はいよいよ警戒を厳にして私を寄せ付けず、この頃では私も大分れ切ってきた。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
そして老人の興奮した、ふるえるような息づかいを自分達の項に感じた。しかし誰が跡から付いて来ようと構わない。兎に角目的のない道行である。心の中には反抗的な忿懣ふんまんのような思想が充ちている。
(新字新仮名) / ウィルヘルム・シュミットボン(著)
しかも残されたものは、やり場のない、激しい忿懣ふんまんの情であった。
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)
自信の強かった太田は怫然ふつぜんとして忿懣ふんまんに近いものすら感じた。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
「加集! ぢやア、君にまかせた」と云つた聲さへ、耳からでも出たやうになつて、一度期どき忿懣ふんまんの情が顏に燃えあがつた。
で、ひとり不安と忿懣ふんまんにたえず、或る日、工事の場でふと、そのことを兄に洩らすと、正成は愍然びんぜんと、弟の顔をみて言った。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
高潔な忿懣ふんまんが激しくわき立ったので、そのためにあなたはなんですな、少しも早く皆に口を開かせて、それでもって一時にすっかり片をつけてしまおうというので
私は激しい忿懣ふんまんを胸に秘めながら、時たま顔を出すことにした。しかし、結果は予想どほりだつた。
母たち (新字旧仮名) / 神西清(著)
自分の少年の頃の無智に対する腹立たしさでもあり、また支那の現状に対する大きい忿懣ふんまんでもある。三年霜にうたれた甘蔗、原配の蟋蟀、敗鼓皮丸、そんなものはなんだ。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
……多くも飲まなかったが悪酔いをした、むろんそんなことで胸の忿懣ふんまんは納るはずはなかった。
粗忽評判記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ああも云いして言葉を尽したが、妙子も一時忿懣ふんまんの余り感情の掃け口を求めた迄で、さすがにそれを実行する迄の勇気はないらしく、二三日するとだんだん興奮が静まって
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
然るべきお金持の妾にして左団扇ひだりうちわと母親が子供の頃から先をたのしみに育てたのも水の泡、忿懣ふんまんやる方なく因業爺を呪つてゐるが、ことの真相は奈辺にあるやら分りはしない。
母の上京 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
しかし勝家の忿懣ふんまんは自然と見えて居たので、秀吉は努めて慇懃いんぎんの態度を失わずして、勝家の怒を爆発させない様にした。信長の領地分配の際にも、秀吉は敢て争わなかったのである。
賤ヶ岳合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
五十男の顔から、不敵な忿懣ふんまんが消えると、それが次第に恐怖になって行く様子です。
由良は学者の言葉がだんだん高くなるのを聞いていると、娘を医者の誤診のために生涯生き殺しにしてしまった彼の忿懣ふんまんの一端をそこに感じて、気の毒さに頭を垂れたまま黙ってしまった。
馬車 (新字新仮名) / 横光利一(著)
だが、また、その声を聞くと、普通のいのちの附根を哀れに絞り千切られたあと、別のいのちが、附根から芽生え出して来たものが忿懣ふんまんやらいつくしみの心やらを伴って涌然ようぜんと沸き立つのを覚えた。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
彼は皮肉まじりに、やり場のない忿懣ふんまんを漏らすのであった。
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
忿懣ふんまんを胸に蔵して僕は月末毎に千二百円を手渡すのです。
ボロ家の春秋 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
徐晃のしたまずい戦は、すべて王平の罪にされた。曹操は、忿懣ふんまんに忿懣を重ね、再度、漢水を前面に、重厚な陣を布いた。
三国志:09 図南の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
僕の忿懣ふんまんはその極に達したが、今度も抗弁は無効であつた。僕は科長であるワニ五郎博士、および研究室附きの若い看護婦、ウズラ七娘に引渡され、病棟内の小部屋に収容された。
わが心の女 (新字旧仮名) / 神西清(著)
「どういうつもりでしょう」と登は忿懣ふんまんを抑えかねたように云った、「金を遣ってでもすぐに子の始末をすると云っていましたが、なにかわけがあるのではないでしょうか」
何かしら自分がひどい大罪でも犯しているような気持になり、世間の誰もかれもみんな自分を恨みに恨んでいるような言うべからざる恐怖と不安と絶望と忿懣ふんまん怨嗟えんさと祈りと
禁酒の心 (新字新仮名) / 太宰治(著)
妙子の仕方に忿懣ふんまんを禁じ難いところもあるが、しかし一方、にもかくにも自分が中に立ってかじを取っていたからこそ、この程度で済んで来たので、そうでなかったらもっと悪い方へ発展して
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それが何故かかの女を歯切れの悪い忿懣ふんまんの情へ駆り立てた。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
彼の心中には忿懣ふんまんの情さえわき立ってきた。
八五郎はまさに忿懣ふんまんやる方なき姿でした。
武蔵はこれを聞き、忿懣ふんまんの色を面に現わしたかと思うと、さっと身をひるがえして、断崖をび下りた。殺竹で足を突き抜いたことは、いうまでもない。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「甲辰の事に関して水戸藩士の一部が高松侯に忿懣ふんまんをいだいているのは事実です、けれどもそんなことはとるに足らない血気の慷慨で、心ある者はもう問題にしてはいません」
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
この惨めな現状に対する忿懣ふんまんから、自分は魂を毛唐に一時ゆだねて進んで洋学に志したのだ。母にそむいて故郷を捨てたのだ。自分の念願は一つしか無い。いわく、同胞の新生である。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)