家橘かきつ)” の例文
家橘かきつ、松助、小団次、源之助などがことごとく顔をそろえて出勤することになって、十一月中旬にとどこおりなく開場式をあげた。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
女「それに家橘かきつが大層渋く成りましたのに、松助まつすけが大層上手に成りましたことね、それに榮之助えいのすけ源之助げんのすけが綺麗でございますね」
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
五代目菊五郎の弟の坂東家橘かきつ——これも働き盛りに死んで、芸は大したことはなかつたが、気分のいゝ役者であつたらしい——その家橘が上置きになつて
役者の一生 (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
これに反して所謂いわゆる庵室は昔馴染の芸人等の遊所となった。俳優中では市川新車、おなじく市蔵、同九蔵、板東家橘かきつ等が常の客であった。新車は後の門之助、家橘は後の五代目菊五郎である。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
妾は当時の川上が性行せいこう諒知りょうちし居たるを以て、まさかに新駒しんこま家橘かきつはいに引幕を贈ると同一にはらるることもあるまじとて、その事をうべないしに、この事を聞きたる同地の有志家連は
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
硯友社この夜の人気は当時の花形たる家橘かきつ染五郎そめごろうを圧していた。
見たりし盆興行は団菊両優は休みにて秀調しゅうちょう染五郎そめごろう家橘かきつ栄三郎えいざぶろう松助まつすけら一座にて一番目は染五郎の『景清かげきよ中幕なかまくは福地先生新作長唄所作事しょさごと女弁慶おんなべんけい』(秀調の出物だしもの)二番目家橘栄三郎松助の「玄冶店大喜利げんやだなおおぎり」家橘栄三郎の『女鳴神おんななるかみ常磐津ときわず林中りんちゅう出語でがたりなりき。
書かでもの記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
一座の俳優は団十郎、菊五郎、左団次、仲蔵、半四郎、宗十郎、家橘かきつ、小団次、小紫などで、観客は桟敷にも土間どまにも一杯に詰まっていた。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
文治は年廿四歳で男のよろしいことは役者で申さば左團次さだんじ宗十郎そうじゅうろうを一緒にして、訥升とつしょうの品があって、可愛らしい処が家橘かきつ小團治こだんじで、我童がどう兄弟と福助ふくすけの愛敬を衣に振り掛けて
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
役割は家橘かきつの金助、八百蔵の権次で、ほかに芝翫、松助、高麗蔵こまぞう女寅めとら、四代目片岡市蔵などもそれぞれの役割を勤めていた。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
わたくしの役はあんまい役じゃアありません、芝居だとつッころばしで家橘かきつ我童がどう小團次こだんじどこの役で、今考えると面白いが、旦那は立役たちやくで、うしろから出て笠をって舁夫をほうり出して
その春興行には五世菊五郎きくごろうが出勤する筈であったが、病気で急に欠勤することになって、一座は芝翫しかん(後の歌右衛門うたえもん)、梅幸ばいこう八百蔵やおぞう(後の中車ちゅうしゃ)、松助まつすけ家橘かきつ(後の羽左衛門うざえもん
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
梅三郎は評判の美男びなんで、婀娜あだな、ひんなりとした、芝居でいたせば家橘かきつのぼりの菊の助でも致しそうな好男いゝおとこで、丁度其の月の二十八日、春部梅三郎は非番のことだから、用達ようた旁々かた/″\というので
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
○八月、市村家橘かきつ改名して五代目尾上菊五郎となる。時に二十五歳。
明治演劇年表 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
もっとも今の羽左衛門が家橘かきつといった頃はへたさ加※はお話になったものでなく、私は到底今のようになろうとは思わなかった、私が明治三十五年頃、歌舞伎座へ『柿木金助かきのききんすけ』という新作物を書いた
当今の劇壇をこのままに (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)