福沢諭吉ふくざわゆきち)” の例文
福沢諭吉ふくざわゆきちも、小栗の下にいた一人である。日本が近代文明を取りいれた基礎は、これらの人たちによつて築かれたといえよう。
当時二十六、七歳の青年福沢諭吉ふくざわゆきちが木村摂津守のお供という格で、その最初の航海に上って行ったといううわさなぞも残った。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
明治維新の直前になって神田孝平かんだたかひらおよび福沢諭吉ふくざわゆきちによってふとそれが見つけ出されたので、それで玄白等の異常な苦心も明らかにされるようになったのは
杉田玄白 (新字新仮名) / 石原純(著)
福沢諭吉ふくざわゆきちまえはださないで、文章ぶんしょう諭吉ゆきちがかいたのだと、わからないようにくふうしてのせました。
またくだって日本の思想界に一大変動を与えたる福沢諭吉ふくざわゆきち先生なども緒方の門人で、医者を師としていたのである。その他維新当時の政治家、兵家、外交家には医者に学んだものが少なくない。
師範学校に入ったのも、その業をえて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずしてしたのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞そくぶんし、すこぶ福沢諭吉ふくざわゆきちに傾倒した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
あたかもその時隣家なる同心中村武兵衛の家に小児が生れた。この小児は維新の後福沢諭吉ふくざわゆきちと並び称せられた洋学者中村敬宇なかむらけいうである。湖山の始めて星巌に謁したのはいつの時であったかあきらかでない。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
おもえば、福沢諭吉ふくざわゆきちこそ、民主主義みんしゅしゅぎひかりをかかげた、明治めいじおおきなともしびでありました。
ヨーロッパ人の中に生まれた自由の理も喧伝けんでんせられ、民約論のたぐいまで紹介せられて、福沢諭吉ふくざわゆきち板垣退助いたがきたいすけ、植木枝盛えもり、馬場辰猪たつい、中江篤介とくすけらの人たちが思い思いに、あるいは文明の急務を説き
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
福沢諭吉ふくざわゆきちは、ながい封建制度ほうけんせいどにならされた人々ひとびと