にれ)” の例文
私が何と云うきのこかと尋ねると、これはにれの木に生えるものですと答えた。少し分けてくださいと頼むと、気持よく承知してくれた。
月夜のあとさき (新字新仮名) / 津村信夫(著)
私はもうすっかり葉の黄いろくなったにれの木の下のベンチに腰を下ろして、けさの寝ざめの重たい気分とはあまりにかけはなれた
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
くまが出たんだよ。にれの木の上の林から放牧場のほうへ、のそのそと出てくるのがはっきりと見えたんだ。一緒に行ってくれないかね」
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
栂や栗、柳、松、櫻、杏、桃、梅、椎の木やにれの木、そんなのが何でもあるのでせうが、山を越えても越えても美しい樹が續いてゐます。
大島行 (旧字旧仮名) / 林芙美子(著)
にれなぞという木を見たこともない開拓民たちは、サッポロ・チャシナイ・クッチャンなどと耳馴れぬアイヌ地名を覚えるのと同じ気安さで
相手は飽くまでもなめらかな舌を弄しながら気軽くにれの根がたを立ち上った。若者はやはり黙念もくねんと、煮え切らない考えに沈んでいた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
其処は小さな聚落で家の周囲まわりにれの樹を植えた泥壁の農家が並んでいた。南は其処に庭のちょいと広い一軒の家を見つけた。
竇氏 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼は自分の腑甲斐ふがいなさに呆れるほどだった。市街のここかしこに立つ老いたにれの樹を見るごとに、彼はそれによって自分の心を励まそうとした。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
銀色のにれの大樹がたくましい幹から複雑な枝葉を大空に向けて爆裂させ、押し拡げして、澄み渡った中天の空気へ鮮やかな濃緑色を浮游させて居る。
決闘場 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
庭には綺麗に刈り込んだ芝原と、塔のように突っ立ったかしわにれの木があって、ほかにも所どころに木立ちが茂っていた。
建物の後は、にれやらならやら栗やら、中にうるしの樹も混ツた雜木林で、これまた何んのにほひも無ければ色彩も無い、まるで枯骨でも植駢うゑならべたやうな粗林だ。
解剖室 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
その上に腹這いにのっかって、枝々に雪のあるにれの並木の間の短い斜面を、下の小道まで辷りっこしている子供たち。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
どこかとほつたことがある樣な道の眞ン中に立つてゐるにれの樹かげから、脊の高いおほびさしのハイカラ女が出て來る。お鳥の樣だが、然しお鳥ではない。
泡鳴五部作:03 放浪 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
後ろの下の方には、川の両岸に、ゴブラン工場の女らの布をさらしてる音が聞こえ、頭の上には、にれの木の間に小鳥のさえずり歌ってる声が聞こえた。
人間の罪をひとりに引受けた孤獨の老僧と見立てるにれよ、祈念きねんつとめるにれの木、潮風はゴモラびとの涙よりからい。
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
庭にはいろいろの石ありあり、その樹は柳、ひのき、桃、にれその他チベットの異様の樹があちこちに植えられてある。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
にれかしや栗や白樺などの芽生したばかりのさわやかな葉の透間から、煙のように、またにおいのように流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向ひなたとの加減が
その上には、大きなにれの老樹が、かすかにそよいでいた。夕暮れの冷気が通り過ぎた。オブドルスクの僧は苦行者の前に身を投げ出して、祝福を乞うた。
これは初より終迄蟹の詞にて、大君が蟹を鹽漬にしてにれの皮に交ぜて喰ふ、といふ事をのべて斯くいへるなり。
万葉集巻十六 (旧字旧仮名) / 正岡子規(著)
柳は芽をふき、にれの木立の芽もほころび、遠くからながめると紫のかすみがかかったようである。思いがけぬ谷間に集落があり、白い草花がまっさかりだ。
事物にその全歴史を見ることもできた。病院の庭のにれの大樹は、その過去の一切の伝説を彼に物語るのだった。
一方はすぐ川になって、前の広場のにれの並木には色とりどりの裸か電球が枝に付けてあるのも祭の季節だからだろうが、鄙びてストラトフォードらしかった。
シェイクスピアの郷里 (新字新仮名) / 野上豊一郎(著)
その崖にのぞんだにれの木の根もとに画架を据えて、一心に絵筆を動かしている岡本の姿が目にとまつた。
この握りめし (新字新仮名) / 岸田国士(著)
にれや樫で薄暗いその庭——さうしたものゝ中に、根強いそして永久的な一種の愛着を覺えるのであつた。
彼は奇特きどくの男で、路ばたにたくさんのにれの木をえて、日蔭になるような林を作り、そこに幾棟の茅屋かややを設けて、夏の日に往来する人びとを休ませて水をのませた。
駅と遼陽城との間十町の地が今は満鉄の附属地となり、それに日本市街が経営せられ、十二間幅の中央道路がにれの美しい並木を以て、駅の前から直線に伸びてゐる。
エイリルはむかしケリルがエマルを取り返した時に吹いた蘆笛あしぶえをとり出してケリルの上に老年を吹いた。ケリルは髪もしろくなってにれの葉のようにかれがれになった。
約束 (新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
畑の向うのにれの木はいい形だなと、やっている。ほかの一人は実直だ。心配そうに避けている。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
秋とはいっても北地のこととて、苜蓿うまごやしも枯れ、にれ檉柳かわやなぎの葉ももはや落ちつくしている。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
その子はいつ見ても物思いに耽っておりました。そして、館から森へ通じている広いにれの並木路を、たッたひとりでいつまでもいつまでも、往ったり来たりして歩いているのです。
寡婦 (新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
蜜柑みかん、車中の外国人、にれの疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えられたあらゆる物象に対して偏執なく愛を投げ掛ける。
享楽人 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
百年碧血へきけつうらみって化鳥けちょうの姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。吹く風ににれの木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
にれの木は若芽を吹き出しかけ、栗の木の頂きには若葉が出はじめていた。私たちは、特に話さなければならないような話題もなかったので、ろくに口もきき会わずに二時間近くブラブラした。
黄色な顔 (新字新仮名) / アーサー・コナン・ドイル(著)
それから某君によりて昆蟲の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣ふいうの生活等につき面白い話を聞いた。にれの蔭うつ大學の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好い都府である。
熊の足跡 (旧字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
それから某君によりて昆虫の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣ふゆうの生活等につき面白い話を聞いた。にれの蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌はい都府である。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
用水のそばに一軒涼しそうなやす茶屋ぢゃやがあった。にれの大きな木がまるでかぶさるように繁って、店には土地でできる甜瓜まくわが手桶の水の中につけられてある。平たい半切はんぎり心太ところてんも入れられてあった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
私の今つとめている札幌の大学は、にれ(エルム)の樹で有名である。
楡の花 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
一筋横に入っている、中農鳥とおぼしき一峰を超えると、また一峰がある、日が昇るに従って、雲や霧は、岩と空の結び目から、次第に離れて消えて行く、葉を一杯に荷ったにれの樹のような積雲は
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
そうしてそれらのすべてのうえに夏の陽がじいっと照りつけたり、にれのてっぺんにしつこいせみの声があったり、小犬がじぶんの尾と遊んでいたり、それを発見した二階の女が編物を中止して笑ったり
踊る地平線:04 虹を渡る日 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
これらの軍楽は遠くパレスチナからきこえてくるようで、村にかぶさるにれこずえのかすかに見える疾駆と揺れうごきは地平線上に十字軍が進軍していくように思われた。これは偉大な日の一つであった。
生める、山住む仙女らは、めぐりににれの樹を植えぬ。 420
イーリアス:03 イーリアス (旧字旧仮名) / ホーマー(著)
……あのにれの木の側のひっそりとした研究室……
地底獣国 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
にれの木は王様のやうに立派だ
虹猫と木精 (新字旧仮名) / 宮原晃一郎(著)
ぶなにれの木にも別れをつげ
定本青猫:01 定本青猫 (旧字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
にれの葉が小さく揺すれる
山羊の歌 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
理学部は薫風にれの大樹蔭
六百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
川狹うしてにれの木を
花守 (旧字旧仮名) / 横瀬夜雨(著)
「そんなことないわ、リラの花とにれとポプラの木の札幌は、なんといっても日本一の都会よ——東京と来たらほこり臭くて、ゴタゴタして、人間がトゲトゲして、冬になってもスキーも出来ないし、春になってもリラや千島フウロのような、可憐な花も咲かないし」
そして私のいる窓の方をお見上げになったが、丁度一本のにれの木の陰になって、向うでは私にお気づきにならないらしかった。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
この時部落のうしろにある、草山くさやまにれの木の下には、ひげの長い一人の老人が天心の月を眺めながら、悠々と腰を下していた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)