こう)” の例文
『乍浦集』の原本は西暦千八百四十二年すなわち我が天保十三年壬寅の年英国の軍隊が南しんの諸州をこうし遂に香港ホンコンを割譲せしむるに至った時
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
然らずして、いたづらに聞見をむさぼるのみならば、則ち或はがうちやうじ非をかざらんことを恐る。謂はゆるこうに兵をし、たうりやうするなり、おもんぱかる可し。
後、董卓とうたく出でて、ひとたび治まるも、朝野の議をみだりにわたくしなし、四こうの乱、ついで起り、あわれ漢帝を民間に流浪させ参らせ、生民せいみん溝壑こうがくに追い苦しむ
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
秦主苻堅ふけん猛を侍中とせし時猛肜に譲れり、のち猛死し堅南晋にこうせんとす、苻融石越等皆いさめしも肜独りこれを賛し、にわかに淝水の敗を致し以て亡国に至れり
「この南の村に、こうという富室かねもちがあるのだ、三娘は其所の女だ、きりょうが良いので評判だったが、二三年前間違えて水莽草を食って死んだのだ、きっとこれがわざをしているのだ」
水莽草 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
匈奴きょうどこの国にこうした時、王、金銀異色の大鼠を祭ると、敵兵の鞍から甲冑から弓絃ゆづるまで、ひもや糸をことごとく鼠群が噛み断ったので、匈奴軍詮術せんすべを知らず大敗した、王
竹渓の没した文政十年以前にあって当時の人心を恟々きょうきょうたらしめた辺事のおもなるものは文化三年九月露人の蝦夷をこうした事と、文化五年八月英艦の長崎を騒した事件とである。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)