加冠かかん)” の例文
かれはとうに加冠かかんの年頃をこえている。二十歳はたちにはまだ二、三年の間はあろうが、前髪をとれば、すでに立派な若侍といっていい。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
式は一閑斎のやかたの一と間に於いてげられ、加冠かかんの役は父武蔵守輝国むさしのかみてるくにが領地から出向いて来てり行った。
または名古屋附近の一女子いちにょし・三女子などという村の名はあるいは後代分割相続の結果ともいわれるけれども、おそらくはこれも下受人が婦人または加冠かかん前の童子であったために
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そう聞いても義元は、年久しく信じきれなかったが、加冠かかんして以来、めっきり大人おとなに見られて来た元康の言行や、初陣ぶりなどを見るごとに、雪斎の言葉が思いあたるのであった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十六、初めて加冠かかんして、十兵衛光秀と彼が名乗った頃、左馬介光春はまだ九歳ぐらいで、名も弥平次とよばれ、元服の席のもようを珍しげに、母のそばから眺めていたものであった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
八郎という幼名を、秀吉から名をもらって、秀家と改め、加冠かかんしたのはついこのあいだである。秀吉はこの遺子いしたちをのこして死んだ直家の心を思いやって、わが子のように、日常左右においていた。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
紀州大納言頼宣よりのぶの孫、貞光の第三男、まだ一介の部屋住みだが、越前丹生にゅうの地に三万石を領して、近年、将軍綱吉に謁見し、その人もなげな天性を愛顧されて、幼名源六を新之助と改め、加冠かかんして
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)